明日を目指すお店リポート:気仙沼で震災5カ月目から営業する理容店「鹿折軒」 iRyota25 2013.01.25 3 3,346 0 「そんなことまで話したのか」。鹿折軒(ししおりけん)の小野寺光男さんはお店に帰って来るなり、母親のみつさんに苦笑しながら言いました。というのも、急な用事で光男さんが出かけている間、避難所生活やお店をオープンした当時のことなど、お客さんの髪を切りながら、みつ
東日本大震災・復興支援リポート「石巻・雄勝町船越浜の怒りと笑顔」 iRyota25 2013.01.24 3 2,800 0 取材後記ならぬ「編集前記」を最初に書いておかなければならない。中里さんに最初に会ったとき、取材を断られた。「何も話すことはありませんから」と。次の日もう一度お会いしたら、「作業しながらしゃべるのを聞くっていうのなら断る理由はないですよ」と一応の承諾をもらえ
東日本大震災・復興支援リポート「雄勝硯の伝統を守る工人・遠藤市雄さん」 iRyota25 2013.01.24 7 4,497 2 工房も道具も津波で流されて、硯を彫るノミも廃業した人から譲ってもらった (2012年11月24日) 遠藤市雄さん。東日本大震災で町の中心部が壊滅する被害を受けた石巻市雄勝町で、伝統工芸品「雄勝硯(おがつすずり)」を手掛ける工人(職人)さんです。 2012年11月24日、石巻
海辺の地をゆく「石巻市・巻石」2012年11月17日 iRyota25 2013.01.24 1 2,700 0 2012年11月17日(618日目)の宮城県石巻市・巻石 石ノ森萬画館がある中瀬から、旧北上川の300メートルくらい上流に小さな中州があります。石巻の歴史の中で、中瀬が産業の揺籃(ゆりかご)だとしたら、こちらの中州は石巻という地名の由来となった場所。源義経の伝説も残る由
明日を目指すお店リポート:久之浜「浜風商店街・はたや」 iRyota25 2013.01.23 3 2,706 1 浜風商店街の食品スーパー「はたや」遠藤利勝さんの603日 (2012年11月3日) 地震の前日、3月10日に妻がいわき市平の病院に入院していたんです。本当は行く予定はなかったんですが、珍しく診察券を忘れたというので届けに行って、その帰り道、平の町を車で走っているときに地
明日を目指すお店リポート:石巻「雄勝硯(おがつすずり)生産販売協同組合」 iRyota25 2013.01.23 4 4,079 0 石巻市雄勝町は日本一の硯(すずり)の産地。その歴史は古く、およそ600年前の室町時代から続くといわれています。雄勝硯を有名にしたのは、仙台藩の伊達正宗。牡鹿半島に鹿狩り訪れた際に献上された硯を正宗はいたく賞賛し、硯の生産を保護・奨励したとされます。と、ここま
海辺の地をゆく「石巻市・中瀬」2012年11月20日 iRyota25 2013.01.23 2 2,763 2 2012年11月21日(622日目)の宮城県石巻市・中瀬 旧北上川の河口を中心に町並みが形成されてきた石巻。川の中州の中瀬は、大河と海をつなぐ港として、江戸時代から栄えてきた。江戸の町で流通していた米の半数が、伊達藩や南部藩などから石巻経由で運ばれたものだったといわれ
「なんとかお店を!」の声に応えるため、被災地第1号となる仮設商店街オープンに奔走 iRyota25 2013.01.22 2 2,416 2 住民がいなければ商店は成り立ちませんが、お店がなければたとえ住宅だけが整備されても人々は戻ってきません。津波によって町の中心部が壊滅的に破壊された上、原発事故の影響で多くの住民がいまも町を離れている久之浜。しかし、この町の「浜風商店街」は、被災地で最初にオ
ボランティアとして参加した、2年目の奉奠祭(2012年10月20日) iRyota25 2013.01.22 2 2,569 0 奉奠祭花火大会前日 現場に到着したのは、もう日が暮れた後だった。震災直後から久之浜とお隣の四倉の復興に向けて、側溝の泥だし、撤去される家屋からの思い出の品の搬出、ガレ花活動、そして昨年の奉奠祭など、故郷の未来のための活動を展開してきた北いわき再生発展プロジ
明日を目指すお店リポート:石巻「被災ピアノを生き返らせるサルコヤ」 iRyota25 2013.01.22 2 4,053 0 2012年11月24日 石巻エリアの人ならみんなが知ってるお店だけれど、ちょっと不思議なネーミング。店先にお猿の太郎「さるっこ太郎」がいたからサルコヤ。楽器とおもちゃを取り揃える、子どもたちにも大人にも人気のお店。長寿猿の太郎はギネス申請中に津波で死んでしまったけ
明日を目指すお店リポート:久之浜「地域密着。町の電器屋さんプラネットさとう」 iRyota25 2013.01.21 2 2,472 2 2012年10月19日 「うちのお父さん70歳なんだ。それでね、あと3年すればお店を出してから50年になるの。だから、それまでは頑張ろうって、ふたりで言ってるのよ」 いわき市久之浜に、東日本大震災後、日本初の仮設商店街としてオープンした浜風商店街。その中ほどに店を構える
被災者って呼び方はもうやめよう。「お互いさま!」と語り合える支援を。(2011年10月18日) iRyota25 2013.01.21 0 2,786 0 多くの避難所が閉鎖となり、大震災の被災地への支援の在り方は変化しつつある。復興を応援する人々の活動を紹介するリポートの第2回目は、被災した人々を伊豆の温泉と自然に招待するショートツアーに焦点を当てる。被災者の心に繋がっていく支援の在り方とは?ユニークな支
動けるうちは動きましょう 前へ、前へ進むのみ。(2011年11月17日) iRyota25 2013.01.21 3 6,824 0 3月11日14時46分18秒。東北地方太平洋沖地震が宮城県牡鹿半島沖で発生した。牡鹿半島の付け根に位置する女川町は、震源から最も近い町のひとつだった。石田志寿恵さんのお宅があった女川町清水地区は、海岸から1kmほど内陸に入った住宅地。1960年のチリ地震の津波でも被害
いろいろな思いを昇華させて被災地に咲くカラフルなペイントの花(2011年11月13日) iRyota25 2013.01.21 0 2,283 0 震災前の町を知らない人にとって、そこは建物が失われた廃墟にしか見えないかもしれない。しかし、長年その町で暮らしてきた人の目には、見えないはずの「元の町並み」がしっかり見えている。廃墟の上の空間に、これから作っていくもっと豊かでもっと幸せな町の姿を、たし
「ここに故郷あり」。高木優美さんの300日(2012年1月20日) iRyota25 2013.01.21 2 16,583 0 20代の青年である。神職である。福島県いわき市久ノ浜町諏訪神社の禰宜である。北いわき再生発展プロジェクトチームの会長である。地元ボランティアのまとめ役である。復興を目指すイベントの仕掛け役でもある。そのくせ、昔は田舎は面倒な場所だと思っていたとさらりと言
人生あと50年。こんなことでは終われないでしょ!(2012年1月20日) iRyota25 2013.01.21 1 2,386 0 北いわき再生発展プロジェクトチーム代表・高木優美(まさはる)さんの話を伺っていると、町が大きな被害を受けたにも関わらず、前向きで、聞いている自分の胸の中がどんどん明るくなっていくのを感じます。こういう人柄だからこそ、逆境にめげることなくコミュニティの復興を
いまはまだ被災者と支援者という立場だけれど(2012年1月20日) iRyota25 2013.01.21 1 2,274 0 被災地の子供たちの思いを込めて2,000発の花火を打ち上げた「奉奠祭(ほうてんさい)」。解体予定の住宅の壁面にペンキで色とりどりの花を描いた「ガレキに花を咲かせましょう」など、久之浜発のイベントには、テレビや新聞、雑誌などで全国に向けて発信されたものが少なくあ
久之浜の復興は「夢物語」なんかではないのです。(2012年1月20日) iRyota25 2013.01.21 3 2,712 0 北いわき再生発展プロジェクトチーム代表・高木優美(まさはる)さんの第一印象は物静かで穏やかな人。しかし、淡々と語る彼の言葉を聞いていると、彼がまぎれもなく「戦っている」ことが伝わってきます。「福島=危険」という先入観を払拭するために。原発から約30キロと
東日本大震災・復興支援リポート いま私たちにできる事は何なのだろう 写真で見る被災地8カ月後の現実。 2011年11月17日~18日 iRyota25 2013.01.21 2 1,938 0 本格的な冬を迎える前に多くの仮設住宅が完成して、被災者のほとんどが入居できました。被災者はみんな元気です。みんな「ありがとう」って言ってます。東北の人たちはガマン強いからもう大丈夫――。そんな話を真に受けている人がいたら考え直してほしい。被災地の人たちが
商売なんてイイ時はバカでもできる。落ち込んで、苦しい時に、どう生きるかが問題なんでないか。 iRyota25 2013.01.21 1 2,017 0 激甚という言葉を使っても、とうてい表現することができない東日本大震災の被害の中で、休むことなく仕事を続けてきた人たちがいる。景色が一変するような被害に見舞われた場所で、人はどんな思いを持って自分の仕事を続けてきたのか。津波被害の爪痕の残るガソリンスタンドで
地域がばらばらになる仮設住宅への入居。切実に 求められているのは、新しいコミュニティの立ち上げ(2011年11月18日) iRyota25 2013.01.21 0 2,655 0 「子どもたちは何人帰って来ているの?」女川町新田地区の仮設住宅の駐車場で、炊き出しの焼き肉丼を作っていたら、背後の仮設の窓が開いて元気な女性の声が響いた。仮設住宅の集会場だと思い込んでいた建物は女川町の福祉仮設住宅(仮設グループホーム)で、声の主は町か
がんばろうと思うのだけれど、将来を考えると不安の方が先に立ってしまう。(2011年11月18日) iRyota25 2013.01.21 0 1,988 0 推定20メートル以上の津波に襲われ、壊滅的といえるほどの被害を受けた宮城県牡鹿郡女川町。被災した多くの人々を福祉関連の仕事を通してサポートするY・Hさんが、被災地で暮らす人々の苦悩を語ってくれた。生きているからこその苦しさと希望。被災地で聞いた現実をお伝えする
待ちに待った養殖再開の門出の日、お金のことを尋ねると、漁師の木村さんはカッと笑った(2011年11月18日) iRyota25 2013.01.21 0 1,879 0 女川町の中心部から牡鹿半島を金華山に向けて車を走らせること15分ほど。風光明媚な五部浦湾の入り江でギンザケ養殖を営む漁師の木村茂さんに出会った。養殖を再開するためには大きな資金が必要だ。再開しても出荷するまで収入はない。それでも茂さんは言い切る。「自分の
世界の人々に伝えたい。 混乱の被災地に貼り出された「6枚の壁新聞」の意義(2012年2月16日) iRyota25 2013.01.21 0 2,452 0 石巻日日新聞が東日本大震災の翌日から6日間にわたって発行し続けた手書きの壁新聞は、海外のメディアからも注目され、震災直後の4月にはアメリカ・ワシントンDCの報道博物館「ニュージアム」に収蔵・展示されました。残りの現物も「震災を風化させない活動」の一環として
この土地で電気関係の仕事をしているんだから 放射能の知識はあった。でも、 娘の切実な訴えに負けて、一度は静岡へ避難した(2012年1月21日) iRyota25 2013.01.21 1 2,195 0 静岡県浜松市に避難している川里女久美(かわさとめぐみ)さんは、爆発した福島第一原発から逃れるため、両親を南相馬に残して避難した状況を「まるで戦争みたいだった」と語りました。一旦は福島にとどまると決めたものの、家族を守るために一緒に避難することにした完戸富