取材後記ならぬ「編集前記」を最初に書いておかなければならない。中里さんに最初に会ったとき、取材を断られた。「何も話すことはありませんから」と。次の日もう一度お会いしたら、「作業しながらしゃべるのを聞くっていうのなら断る理由はないですよ」と一応の承諾をもらえた。しかし中里さんのまなざしは厳しかった。それでも「船に乗ってみますか」と沖の筏に吊るしたアナゴの生簀を見せてくれた。さらにその翌日は強風でアワビ漁が中止になるというタイミングだった。中里さんは仲間と船に乗り込んで、作業のために波高い海へ出て行った。
そんな中里さんが記した2013年1月20日のブログの記事によると、ついに中里さんの船ができたらしい。お正月の記事には「男なのだから、家族を養う為そして地域の再生・復興の為にも頑張って頑張りぬく事で希望が持てるから。 正月は返上です」と書かれていた。
文字通り壊滅的といえる被害を受けた石巻市雄勝町船越の浜。ホタテ部会の会長として、船も家もなくした人々とともに、絶望の中から浜の復活を目指してきた中里さんだからこその厳しい言葉だったのだと思う。しかし、だからこそ、その言葉を伝えたいと思う。(2012年11月19日~21日)
「お話しできるようなことはありませんよ」
中里さんは小舟をロープでもやいながらそう言った。
「この浜は船も家も90%以上持って行かれた。向こうの高台に小学校が見えるでしょう。あそこの3階まで津波が来たんです。集落には何も残されませんでしたよ。近くに仮設住宅を建てる場所もないので、この浜に住んでいた人は、ほとんどが石巻の方の仮設に入っていてます。それでも、家や浜を片付けに浜にくるうちに、がんばってみようと思う人が集まるようになったんです。いまでもみんな、1時間近くかけて、毎日浜に通って、何とかしたいとやっているんです」
漁船も漁具も失った上で、漁業を復活させるために、中里さんたちはあらゆる知恵を絞った。もちろん国や県などの制度は利用できるだけ利用した。ブログを立ち上げて浜の窮状を訴えた。全国からボランティアが集まった。海外から来てくれる人もたくさんいた。マスコミも来た。支援も集まった。それでも中里さんはこう言った。
「外の人にはね、もう何も期待していないんですよ」
いろいろやってもらったが、結局ほとんど変わっていない。被害はそれだけ深刻だった。共同作業の難しさもある。団結してやっていこうとしてきたが、近いうちに「基本的に個人で」という方向に転換していくという。浜の復活を目指す婦人部「船越レディース」が、雄勝硯に使われるのと同じ石のスレートを利用してつくるアクセサリーには全国から注文が寄せられるが、注文に対応することができない。そもそも100個、200個と注文が来ても、作る方の手が回らない。
やってきたことが手詰まりになっている苛立ちを中里さんの言葉に感じた。
「ここに来てくれたボランティアの人たちには本当に感謝しているんです。いろいろ支援してくれた人にも感謝しています」
中里さんが記事を書いているブログに載せられた写真を見れば、浜の人たちとボランティアの人々のつながりはよくわかる。顔が見える付き合い、現地の状況を知った人たちの付き合いは深い。でも、同じような付き合いにはならない関係もあるということなのだろうか。
翌日、二度目に会ったとき、中里さんはワカメ養殖の種付け用ロープの支度をしながら言った。
「意地でもやってやる」
事情を知らない人たちの中には、船越浜や中里さんについて、根も葉もない中傷をする人もいるらしい。ほとんどすべてを失った中から立ち上がろうとしているのに、支援を受けることへの非難があるというように聞こえた。だから、自力でやってやる。中里さんの茶色い瞳が鬼神のような炎を上げているように見えた瞬間もあった。
遠く離れた仮設からの通勤だから、午後3時には片づけを始め、4時には浜を離れる。作業ができる時間は限られている。ひーふーみーと準備を終えた養殖ロープの山を数えながら、「これだけやれば上等かな」とつぶやいた後、中里さんは船に乗せてくれると言った。
「昨日、小学校のところで冷凍のアナゴを見たでしょう。出荷できなかったから凍らせたんだが、市場に出そうと活かしているのがあるんです」
アナゴは港外の養殖筏に籠を吊るして活かしているということだった。もちろん船に乗せてもらった。
アナゴを入れた籠を付けた筏は、ワカメ養殖のものだった。ワカメ養殖のロープを支度から一緒に作業をしていた阿部忠作さんが海からロープを持ち上げる。
「よかった。着いてるな」と海の上で2人が大きな声をあげた。素人目にはロープに付着した藻類の見分けはつかないが、ワカメの種がうまくロープに着いたという意味らしい。これなら次にいれる種付けロープも期待できる。「ワカメ、ホタテ、ホヤ、できるものなら何でもやります」と、ロープ作業をしながら中里さんが言っていたのを思い出した。何でもやらなければ復興なんて覚束ない。失ったものが多すぎる浜では、それが当たり前の共通認識なのかもしれない。
アナゴの入った籠には驚かされた。仙台湾のアナゴや万石浦のアナゴも有名だが、中里さんの籠の中に入っていたのは、見たことがないほど太くて活きのいいものだった。籠の中で傷んだアナゴをより分けながら、中里さんに笑顔が戻ったように見えた。
「アナゴは石巻の市場に運ぶって言ってましたけど、明日はアワビ漁の日じゃないんですか」と尋ねてみた。
「だから明日は夜明け前から走りますよ。アワビ漁の時間に戻ってこれるように。でもね、明日も風が強くてできないかもしれない。明後日の方が状況はよさそうだ」
中里さんが船尾のエンジンを操って船を港に走らせている時、舳近くで阿部さんがこっそりこう言った。
「この人がいるから、浜がなんとかやって行けているんだよ」
3日目の早朝、石巻の街なかはほとんど無風だった。これならアワビ漁ができるだろうと、船越浜へ向かった。大きな収入源であるアワビ漁は、浜の一大イベントだと聞いている。ふだんはほとんど海に出ない漁師も、この日ばかりはと船を出すという。浜のにぎわいを期待して船越漁港への坂道を下って行ったが、人影はまばら。漁の開始時間の8時を過ぎても、出て行った船は1艘だけ。
そんな中、中里さんがやってきた。
「今日は出せますね」
「いや、風が強くなってきたから今日は中止だ」
言われてみれば、確かに小さな三角波が立ち始めていた。
「安全に漁ができるから、明日に延期してよかったんですよ」
中止にも関わらず、中里さんの顔は晴れやかだった。そして、昨日のボートとは別の漁船に乗り込みながら、
「井上さん、それにしてもあんた、自分が一年で一番機嫌が悪い時に来たよなあ」
と照れくさそうに笑顔で言った。「アワビはやれないけれど、仕事はいっぱいあるからな」と出航していく中里さんに、こちらも笑顔で「また来ます」と、エンジン音に負けないように大きく声をかけた。
●TEXT+PHOTO:井上良太
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