海辺の地をゆく「石巻市・巻石」2012年11月17日

iRyota25

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2012年11月17日(618日目)の宮城県石巻市・巻石

石ノ森萬画館がある中瀬から、旧北上川の300メートルくらい上流に小さな中州があります。石巻の歴史の中で、中瀬が産業の揺籃(ゆりかご)だとしたら、こちらの中州は石巻という地名の由来となった場所。源義経の伝説も残る由緒ある中州です。

仙台藩や南部藩の米蔵が立ち並んでいた江戸時代、石巻にはたくさんの水路があったらしい――。石巻の町は古くから、文字通り旧北上川とつながっていたのです。今回の津波で町の中心部が何日間も水没状態だったのも、いまは塞がれて道路となっている古い水路の影響なのでは、という話を聞いたことがあります。

東日本大震災の後、旧北上川の川岸には新しくコンクリートの堤防が築かれました。電動ポンプで動く排水機も急ごしらえで設置されています。しかしこの堤防は「とりあえず」のもので、将来的にはさらに大きなものが町を守るためにつくられるとのことです。

そんな震災後の旧北上川をカメラでパチリ。でも、よく見ると、ちょっとヘンじゃありません?

朱色に塗られた太鼓橋の陸側の欄干が、真新しいコンクリート堤防に埋もれているのです。

橋を渡って中州の方から見るとこんな感じです。

太鼓橋が不思議な橋になったのは、この中州が石巻にとって大切な場所だから。

旧北上川の河口から2kmほどの中州は、津波の大きな被害を受け、いまも危険な状態です。

しかし、かつてはここから対岸を結ぶ渡し船があって、奥州藤原家を頼って落ちのびる途中、源義経もこの渡しを使ったといわれます。鎌倉方に追われて逃亡する義経は、船頭へのお礼も銭もなかったのか、着ていた着物の袖をちぎって渡したのだとか。いやいや、義経が袖の渡しを通ったのはもっと前の平治の乱の後だという話があったり、清少納言の和歌「とこもふち 淵も瀬ならぬ 涙川 袖の渡りは あらじとぞ思ふ」に読まれているのがここだとか、いろいろな言い伝えが残されています。それでも、江戸時代に松尾芭蕉が奥の細道で訪れた「袖の渡し」がここなのは間違いないと言われます。

まるで盆栽のような、美しく選定された松の下には「巻石」という石が川面から頭を出しているはず・・・なのですが、満潮のせいで見えません。川波が石の周りを巴を描くように回っていたことから名付けられた巻石は、石巻の町の名前の由来ともいわれます。

最初の写真を拡大すると、中州の左にかろうじて、巻石によるものと思われる水面の乱れがわかります。

中州に掛けられた太鼓橋は、そんな石巻のルーツや歴史と石巻にいま生きている人たちを結ぶものだったのです。中州の方から見るとこんな感じ。橋を渡ろうにもコンクリートの壁で行く手をふさがれます。

 それでも橋はコンクリートで埋められるのではなく、 欄干のまわりがウレタンシートで保護されています。

 いつかまたこの橋を渡れるようにしたいという「意思」 が感じられます。

太鼓橋を渡り下流に向かって歩いてすぐの公園です。津波で大きな被害を受けた上に、地盤沈下で川岸のボードウォークは浸水。この状況を見れば、いまよりも高い堤防が必要なのはもちろん理解できます。

でも、高い堤防を築けば、これまで親しまれてきた水辺の風景はなくなってしまうのです。

ウレタンを巻かれた太鼓橋の欄干から、いろいろな声が聞こえてくるような気がします。

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●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)

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