商売なんてイイ時はバカでもできる。落ち込んで、苦しい時に、どう生きるかが問題なんでないか。

iRyota25

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激甚という言葉を使っても、とうてい表現することができない東日本大震災の被害の中で、休むことなく仕事を続けてきた人たちがいる。景色が一変するような被害に見舞われた場所で、人はどんな思いを持って自分の仕事を続けてきたのか。津波被害の爪痕の残るガソリンスタンドで、震災直後から営業を続けるY・Kさんに聞いた。

仕事やめるなんて考えたこともなかったな

   「いつ開けたか?そんなこと考えたことないから、わからないな」

   ガソリンスタンドを再開したのがいつだったのか尋ねると、Y・Kさんからこんな答が返ってきた。Y・Kさんのスタンドは海の目の前にある。石油会社のロゴマークがペイントされた鮮やかな擁壁が倒れている様子を見れば、津波で大きな被害を受けたことは一目瞭然。運転中の車からは、一瞬、やってないスタンドかと思ったほどだ。しかし「レギュラー142円」と真新しい文字で記された看板が、営業中であることを力強くアピールしていた。

   「まるで営業しているのが不思議みたいに言うけど、借金あるんだから働くしかないだろ」

   普段見かけるものとは違って、白くて四角い箱に給油用のホースとノズルが付いただけのガソリン計量器のメーターを確認すると、電卓を叩いて料金を計算しながらY・Kさんはそう言った。

   震災後に入手した仮設の計量器には500リットルのタンクが内蔵されている。地下のタンクから燃料を直接給油できる普通のガソリンスタンドとは違って、何台か給油したらホースを使ってガソリンを計量器に移し替えなければならない。「これも借金で手に入れたんですか?」と尋ねると、「これは手持資金だ」と叱られた。料金を手計算しなければならない不便なガソリン計量器だが、この場所でスタンドを営業していくためには、なくてはならない大切な道具なのだ。

   「地震が起きた時はタンク車で配達に出ていた。すごい揺れだったから間違いなく津波が来ると思った。だからいったん店に戻って、ガレージのシャッターを閉めたり、できるだけの準備をしてから高台にタンク車で避難したんだ」

   津波が収まった後、店に戻ったY・Kさんが目にしたのはどんな状況だったのか。

   「事務所の中はぐちゃぐちゃだ。壁は壊れ、ガラスは割れ、それでも建物は流されなかった。シャッターを閉めて行ったのが良かったんだろうな。もちろんシャッターも壊れてしまったが、クッション代わりにはなったんだろう。ガレージを開けたままだったら、水の勢いで持って行かれたと思うよ」

   そうは言ってもスタンドの周りは瓦礫だらけ。漁船まで打ち上げられていた。石巻の自宅まで徒歩と偶然拾えたタクシーで帰り、家族の無事を確かめた後、Y・Kさんは店に戻って瓦礫の片づけを始める。時々タンク車で内陸の町に買い出しに出掛けたりしながら、少しずつ再開の準備を進めていった。その間も、お客さんがあればタンク車から給油した。だから、震災後に休業したのは、「1日か2日くらいだな」。

   「地下のタンクが無事だったからな。売る物があって、お得意さんがいるんだから、店を開けるのが当たり前だろう」

   しかし、女川町の被害は甚大だ。震災直後には道路も寸断されていた。一瞬でも仕事をやようと考えたことはなかったのだろうか。

   「仕事やめる?そんなこと思うヤツがいるか。いまこの瞬間まで考えたこともなかったなあ」

   Y・Kさんはちょっと驚いたように言った。

「東北人が我慢強い」なんて、そんな話を信じているのか?

   被災地の現実とは裏腹に「外側」の人たちの中では大震災の記憶は薄れつつある。「仮設もできたようだし、東北の人たちは我慢強いからもう大丈夫だろう」。そんな雰囲気まである。「だからこそ、被災地の人たちの本当の声を伝えたいんです」と力を入れると、Y・Kさんはこう言った。

   「テレビとか新聞とかに載ってるようなカッコイイ話とか美談とか聞きたいんだったら、よそに行った方がいい」

   さらに、

   「東北の人間は我慢強いからなんてこと、外の人間は本当にそう思ってんのなや?ふざけるなと思うな」

   Y・Kさんは記者の目を見据えて言い切った。

   「だいたい、新聞とかに載ってる『かろうじて助かった』なんて話はおかしいんじゃねか。そもそも、なしてこんなにたくさん死んでしまったんだ?地震の前から避難訓練とかいろいろやってたって、結局人の命を守ることができなかったんだから、やっぱ行政は無くてもよかったってことになるんでねえか。それを問わねのはなんでなんだ。オレ、変なこと言ってるか?想定外と言えばそれで済むってことなのか」

   「ここまで津波は来ないだろうと思って流された人がいっぱいいる。牡鹿半島の谷川小学校は避難所に指定されてたから、先生も子どももみんな校庭にいた。集落の衆に尻叩かれてやっと高台に避難して助かったんだ。営業中に津波に襲われて2人しか助からなかった銀行もある。女川の海のすぐ近くの銀行だ。まさか津波が来ないとでも思っていたのか。行政も学校の先生も企業の上司でも、人の命を預かっているという意識があったのかどうか」

   「この辺はこれまでに何度も津波に遭ってるんだ。地震が来たら、できるだけ高い所、できるだけ海から遠いところに逃げないと津波にやられてしまう。自分の子にはそう言い聞かせてきた。当り前のことだ。自分たちで考えて備えておくことが大切なんだ」

   さらにこんな話も聞かせてくれた。

   「震災の直後はこの辺の避難所に燃料を配って回った。生まれ育ったところだから、みんな子供の頃からの顔見知りみたいなもんだ。金なんかもらわないよ。特別なことじゃねえ。ああいう時はそういうもんなんじゃないか」

   「でもな、オレに黙って石油を持ちだしたヤツがいたんだ。その避難所にはもう分けてやらなかった。その後で考えたんだ。どうせタダで分けるつもりでいたものだ、黙って持ち出したからって分けてやらない法はなかったんじゃねえかってな。頭で考えればそういうことなんだが、やっぱり許せなかったな」

   まともにお金をもらっての営業は4月頃から再開した。ぽつりぽつりだが顔なじみのお客さんが戻ってくるようになった。言うまでもないことだが、自動車も重機も漁船も燃料がなければ動かない。Y・Kさんの店に燃料を買いにくる人は誰もが「何かに向かって動き始めた人たち」だったのだろう。そのせいか、震災後仕事をせずにいる人に対するY・Kさんの見方は厳しい。

   「仕事やらない人は、働かなくても金があるからそうしてるんだろ。たとえ誰かが死んでもらった金だって、金に色は付いてついてないもんな。地震と津波でやられた町で、パチンコ屋だけがあんなに繁盛してるってのもおかしな話だろ。でもオレは借金返さなければならないから仕事をやる。それだけだ」

   「カタチがあるものは、壊れたら直せばいいだけだからな。そりゃ、家族を失ったりしたら落ち込むだろう。でも、しばらくはショックでも、また歩き出すと思うな、オレの場合は。だって、そっから逃げたら全部から逃げるみたいになるもんな」

   「商売なんてものはイイ時はバカでもできる。落ち込んで、苦しい時に、どう生きるかが問題なんだとオレは思うな」

   話を伺った30分ほどの間だけで5人のお客さんがあった。Y・Kさんはその都度、仮設の計量器で給油して電卓を弾き、清算が終わると、お客さんが出て行くまで外で見送っていた。震災の前と少しだけ違うところはあるけれど、たいせつな基本は何も変わっていないのだと、Y・Kさんの背中が物語っているように思えた。

取材後記

「オレ、変なこと言ってるか?」。

Y・Kさんはお話の途中で何度もそう問いかけました。

厳しい話も含めてY・Kさんの言葉はまったく変ではないし、真っ当なことだと思いました。「被災地は復興に向けて力強く動き出している」という言葉を時々耳にします。外側の人間はその言葉に、なにか華々しい第一歩が踏み出されたようなイメージを持ってしまいがちですが、そうではありません。「被災地の力強さ」とは、Y・Kさんのような方たちの生き方の中にあるのだと感じました。

「写真とかプロフィールとかそんなものはお断りだ」と、撮影は拒否されてしまいましたが、別れ際に「また来いよ」と、眼だけ笑顔で言ってくれたその表情を、いつかは写真に撮らせてもらいたいものだと思っています。(2011年11月18日取材)

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