「そんなことまで話したのか」。鹿折軒(ししおりけん)の小野寺光男さんはお店に帰って来るなり、母親のみつさんに苦笑しながら言いました。というのも、急な用事で光男さんが出かけている間、避難所生活やお店をオープンした当時のことなど、お客さんの髪を切りながら、みつさんが話してくれていたのです。光男さんが「そんなことまで」というのは、
「8月10日に店をオープンしたんだけど、その直前の8月5日まで避難所で理容のボランティアをしていたんです。でもね、開店した後になって、しまった!長くやりすぎた!って家族みんなで悔んだんですよ。ボランティアを早めに切り上げていたら、もっとお客さんが来たかもしれないねって」とか、
「店の近くの避難所だったから、ボランティアをしてたら仮設住宅に移った後もお客さんが来てくれるって思っていたんだけど、入居が抽選だったから、この辺の人はほとんどが遠くの仮設に行っちゃった。下心は見事に崩壊したのよ」
といった話。みつさんの話には悲惨さを笑い飛ばすようなパワーがありました。
戻ってきた光男さんが、筆者の名刺の住所を見ながら最初に口を開いたのは、「静岡から来たんですか。静岡じゃ地震が起きてから4分後とかで津波が来ると言われていますね。大丈夫ですか。逃げられるんですか?」という言葉でした。政府が8月に示した被害想定では、静岡県の多くの市町で津波の最短到達時間が2分~6分と公表されています。なかでも4分という地域がたしかに多かったのです。遠く離れた静岡のことなのによくご存じだなと感服しながらも、まずは避難所でのボランティアについて話を伺いました。
避難所でカットやシャンプーのボランティアを始めたのは3月28日から。24日か25日に支援に来た一関の理容学校の知人が届けてくれたハサミや椅子などを使って始めたのだそうです。
「給水車は10日くらいで来たかな。でも電気がなくてね。当時は避難所で発電機を使っていました。
「発電機を回すのは夜の間と、朝ドラの時間だけだったわね。
「だから、廃材を運んできてドラム缶でお湯を沸かして。ポリタンクを逆さまにしてシャンプーできるようにして。まき割が大変だった。
光男さんの話にみつさんが合いの手を入れるように話してくれるので、もうカギカッコ閉じ(」)を入れる暇がないほどです。おふたりの掛け合いを聞きながら、当時の写真がないか尋ねてみると、
「それが写真というものを撮ってなかったのよね。NHKは来たけれど」
テレビで取り上げられたりしたものの、ハサミが二人に1つしかなかく、カミソリもなく、ドライヤーも動かなかったので、なかなか思うようなサービスができなかったと言います。しばらくして避難所に全国から理・美容師さんのボランティアがやってくるようになったこともあり、なんとか早めにお店を再建しようということになったのだそうです。
「意地ですよ。千葉の方などから来ないかと誘われたりもしたけど、ここでやろう。一番にお店を出して、鹿折地区に帰ってくる人たちを待っていようってね」
しかし、その“ 下心 ”が崩壊したのはみつさんが語ったとおり。道路のかさ上げの話は決まったが宅地がどうなるのかは不透明。私有地でも減歩とかあるだろうし。そうなると自分でかさ上げするのも考えてしまうだろう。それに、また流されるかもって場所に、ローン組んでまで家を建てるのかという問題もある。
「再開してからは新しいお客さんが増えました。でもね、遠くに行った人がわざわざ訪ねてくれることもあるんですよ。やっぱり元々住んでいた人はこの辺のこと気になるんでしょうね」
被災地にはいまだに安否が分からない人もたくさんいる。ひょっこり店を訪れたお客さんに「あら生きてたのね」と1年半ぶりにそんなあいさつをすることもあるのだそうです。
●ここまでの写真:奥野真人
津波が来る場所にいる人は「てんでんこ」に逃げないと
「東海・東南海・南海地震では、3分とか4分で津波が来るっていわれていますよね。ここは30分だったっから、うちはみんな逃げられたけど、それでもこれだけの人的被害ですよ。4分で逃げられるかなあ」
そんな話をしているところに、光男さんの奥さん、科絵(しなえ)さんがお店に入ってきました。ここからは3人による掛け合いです。
「私が勤めている会社は町の中心近くの少し高台にあったんですが、1階がダメでした。いま屋台村がある場所の隣の派出所は2階の窓まで見えなかったですよ。8メートルとか9メートルとか言われますね」
「鹿折軒のある場所は2階の床くらいまで水が来ていたわね。この辺じゃ海と川の両方から津波が来たんです。家も流れついてきて、そして燃えた」
「駅前に船が残されていますが、あのクラスの船がこの辺りに6隻あった。すぐ近くにも150トンのがありましたよ」
「橋も堤防も越えて津波に浮かんだ状態で町に入ってきたのよ」
「津波って、ザザーッと上が平らになって押し寄せてくるイメージがあったけど違うのよ。渦を巻きながら押し寄せてくる感じだったわね」
「津波の先端はバイパスを越えて、小学校のところで深さ1メートルくらいありましたよ」
「津波と一緒に流れてくる物が凶器になるんだよね。木なんかも突き刺さってくるし。打ち上げられてきた船は、津波で流されながら家をなぎ倒していった」
「津波といっても海の水じゃないもんね。重油まみれの海だから、流れてくるのは泥と重油。半月くらいは臭かったなあ」
「あと、この辺は水産加工屋さんも多いからね、水が引けた後、マグロとかもごろごろ転がっていた。それが人間かと思えるんです」
「とにかく臭くてハエだらけだった。ペットボトルトラップとかもたくさんやってたけど、却って寄ってくるのよね」
震災直後の話は止まるところがありません。いくら話しても話したりないといった感じでした。みつさんは「忘れられるのが一番困るのよね」とも話しました。伝えなければという思いがとても強いのです。
光男さんとみつさんの言葉の間に割り込むように、科絵さんがご自身の危機一髪だった経験を話してくれます。「地震の後、子どもを預けていた保育所に急いで車で迎えに行きました。保育所はかなり海に近い潮見町にあったので高台に急いだのですが、知り合いの車を自分の前に入れてあげたんです。少し高台になっている中学校の近くまで来たところで、ひどい渋滞で車が動かくなくなりました。私はとっさに脇道に入って坂を上って行ったので助かったのですが、私の前の車に乗っていた方は亡くなりました」
「津波避難の時には基本的に車を使うなと言われますが、たとえば寝たきりの家族がいたらどうします?田舎に行くほど車社会です。海の近くで高台まで距離がある場所なら、車を使うしか逃げられないところもあるんです」
「しかし、4分で津波が来たらどう逃げるんでしょうね。揺れている最中でも逃げろってことですかね。ここでも避難している間も5分おきくらいで地震がありました。自分たちは山の方に逃げたけれど、電柱が倒れそうになっていたりで危なかったですよ」
「夜中に地震が来ていたら、もっと被害が大きかったと思う」
「てんでんこですよ。津波は思ったよりも早く来る。個人個人で逃げるしかない。人のことをかまっていると死んでしまうから、とにかく個人で逃げろという三陸地方の言葉ですが、4分で地震が来るところだと、てんでんこしかないでしょう」
水に浸かりながら逃げた人は、ひざ下の水で動けなかったらしい。30センチの深さの水で車は浮いた。すぐにドアが開かなくなって流されるままになった。そんな話も教えてくれました。
「津波の危険のある場所に住んでいる人は、とにかく逃げてください」
信じられないような被害を受けた気仙沼で、力強く立ち上がろうとしている人たちからのメッセージです。
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
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