前回の話
郡上八幡を後にすると、国道156号線をさらに南下して犬山城へと向かった。
犬山城は全国に4か所しか存在しない国宝に指定された天守閣を持つ城である。江戸時代以前に築かれた貴重な天守で、自分の目で見ておきたいと思っていた城である。
犬山城について
犬山城は1537年に織田信長の叔父、織田信康によって築かれた。その後、戦国時代の荒波のなか城主は次々と変わったが、江戸時代初期の1617年、尾張徳川家の重臣・成瀬正成が城主になって以降、幕末まで成瀬氏が犬山城の主となっている。
明治時代になると、所有者は成瀬氏から愛知県へと変わった。この時、天守閣以外のほとんどの建物が取り壊されている。
1891年に発生した濃尾大地震で犬山城の天守閣は大きな被害を受けている。愛知県は壊れた天守閣を修理することを条件に1895年、旧城主である成瀬氏に城を譲与した。以降、成瀬氏が城を管理してきたが、2004年「財団法人犬山城白帝文庫」に所有が移り、現在に至っている。
犬山城の天守閣は、望楼型と呼ばれる入母屋造の下層部の上に望楼がある造りで、3重4階地下2階となっている。地下2階部分は高さ約5mの石垣内部にあり、石垣の上に高さ約19mの天守閣が建てられている。
かつて数多くあった日本の城も、江戸時代の1国1城令、明治時代の廃城令、昭和の第二次世界大戦などにより、その多くが取り壊されたり、焼失したりするなどして、現在、江戸時代及びそれ以前に造られた天守は犬山城を含め、全国で12城しか残っていない。
犬山城を歩く
犬山城は木曽川のほとりにある山の上に建てられている。山の高さは40~50メートルほどあり、遠くからでも天守閣を確認することができる。犬山城は城と城下町が堀に囲まれている「総構え」の城であった。現在、空堀は一部残っているものの水堀は残っていない。城の東側に郷瀬川(ごうせがわ)という川が流れている。犬山城へ向かう時、自然の川を利用したお堀だと思っていたのだが、実はこの川は明治時代に人工的に造られた川であることを後日知った。郷瀬川は、犬山城の南東約8kmのところにある「ため池(入鹿池)」の余分な水を木曽川に流す目的で1886年に作られ、実際のお堀は郷瀬川より東側にあったそうだ。
郷瀬川を天然のお堀と勘違いしながら、川に架かる橋を渡り犬山城へと向かう。
橋を渡って100mほど行くと神社があった。その神社の境内を通りぬけて坂道を登って行くと、犬山城の大きな城門が見えてきた。
城門をくぐると天守閣が目に飛び込んでくる。風格漂う天守である。3階部分の唐破風(※)と4階に造られたテラスのような廻縁(まわりえん)が城の魅力を引き立てている。天守閣入口の右側には突き出すように造られた特徴的な櫓(やぐら)がある。付櫓(つけやぐら)と呼ばれる天守入口を側面から守るための櫓で、天守閣に変化を与え、見る者を飽きさせない。
(※唐破風:中央部が弓なり状にせり上がった破風。)
天守閣の出入口は石垣の一画をくり抜いたように造られている。中に入ると、石垣と長い歳月を感じさせる太い柱や梁が印象的な部屋がある。石垣は自然石をほとんど加工しない野積みと呼ばれる工法で積まれている。
天守閣の1階には4つの部屋があり、そのうちひとつは「城主の居間」とされ、畳が敷かれている。城主の居間の背後には「武者隠しの間」と呼ばれる部屋があり、警護の武士が詰めていたという。
2階は「武具の間」と呼ばれる、武器などが置かれていた部屋となっており、3階は「破風の間」と呼ばれ、成瀬氏が城主であった際に増築したといわれている。
そして、最上階の4階。四方を遠くまで見渡すことができる最高の眺めである。特にゆったりと流れる木曽川と町並みの光景は格別である。昔は限られた人しか見ることができなかった光景をこうして見ることができることに嬉しさを感じる。
閉門時間ぎりぎりまで天守閣を見学し、城門を出た。
犬山城は、これまで見てきたなかでも最大級の魅力を感じた城だった。建築当事の天守だからこそ感じるリアリティと4階の望楼から眺める光景は筆舌に尽くしがたいものがあった。
城外に出ると、歩いていた地元の方に城の撮影ポイントを聞いてみる。すると、ライン大橋からの犬山城がいいと言うので行ってみた。
橋には二人の若者がいた。先ほど天守閣の4階で会い、写真をとってもらった二人組だった。話しかけてみるとどうやら彼らは中国からの留学生で、今は名古屋に住んでいるとのことだった。彼らと10分ほど立ち話をした後に一緒に記念撮影をすると、別れを言って恵那山を目指した。
<2014夏休みレポート Vol.8 ~通行止めになったゲートの前にて~ へ続く>
犬山城
参考WEBサイト
Text & Photo:sKenji
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