真冬に東北・・・。
想像を絶する気候なのではないかと、不安になりつつ準備しました。
【準備したもの】
・スノーブーツ
・ダウンジャケット
・ネックウォーマー
・ニット帽
・手袋
・ヒートテックシャツ
・カイロ
雪道対策で、念のため4WDの車に予約もしなおしました。
さあ出発!!
2018年2月10日(土)、静岡から新幹線で岩手県へ。
盛岡駅を降りて、田老へは国道466号線で行く予定でしたが、レンタカー店の従業員の方に国道106号線を進められたため、ルート変更。
東北の冬はどのくらい寒いのか・・・。心配しながら出発。
一日目、昼食にありつけるのか・・・。
昼食予定の『あじさい』は、電話をかけると「現在使われておりません」と不通。他にも田老の食事処に電話しましたが、ことごとく不通・・・。
田老まで行くよりは、店の多い宮古で食べようと、急遽予定を変更。
宮古市魚菜市場の中の一角ある『まんぷく食堂』に決めていくと、お店がない!?電話をかけるとまたも「現在使われておりません」と不通・・・。
とりあえず行くだけ行ってみようと、宮古市魚菜市場へ。
お店はありませんでした・・・。
車に残っていた夫に報告すると、「他の店が入っているのではないか」と言って探しに行きました。
戻ってきた夫は、「他にもお店あるじゃん!」とのこと。。。。。
全く周りの見えない私。。。。
周りを見ると、宮古市魚菜市場には他にも食べ物屋さんがありました。
ということで、今回は『丼の店 おいかわ』で食事をしました。量は小ぶりですが新鮮な魚介丼がとてもおいしいです!
道の駅でショッピング!
お腹もいっぱいになり、1日目は田老で語り部さんのお話を伺います。
予定よりも早く到着したため、『道の駅たろう』でショッピング!!
地元の人が作った野菜や海産物がお安く手に入りおすすめです!
田老の防災ガイドSさんのお話
田老駅で学ぶ防災ガイドのSさんと合流し、3つの防潮堤が合流する地点まで移動します。
工事中の海辺を走りますが、防潮堤で海が見えないため、海岸という認識が薄れてきます。
海が見えないということも、災害時に危機意識を鈍くさせ、行動を遅らせる要因かもしれません。
〇 防潮堤
まずは第一防潮堤、第二防潮堤、第三防潮堤の交わっていた場所へ。
『田老』は津波により田が老いるとの由来が示すように、昔から津波の被害が多い町でした。
そこで高さ10mの万里の長城と言われる3つの防潮堤が作られます。
東日本大震災では地震発生から約40分後に17.3mの津波が田老を襲いました。10mの防潮堤を超えて町を破壊し、181名の方が犠牲となり、そのうちの41名が現在も行方不明です。
というのも、地震後に「津波の高さ3m」の放送があったのですが、「津波が来ても10mの防潮堤があるから大丈夫」という気持ちから、逃げなかったり、一度逃げても家に戻った住民の方が多くいらっしゃったそうです。
もともと津波の多い田老は、5分以内で逃げられるように道が整備され、避難所も44か所あったそうです。避難さえすれば救われた命が犠牲となりました。
現在は新しく防潮堤を作っていました。
田老の防潮堤は14mで、岩手県内では最大の高さだそうです。
ただし、海の様子が全く見えなくなってしまうことによる危険意識の薄れなど、住民から疑問の声も上がっているとのことでした。
防潮堤の内側は球場になっており、すぐわきには国道45号線があります。国道より海側には住宅が建てられないそうです。
〇 JFたろう製氷貯氷施設
製氷貯氷施設の壁面には、過去の津波の高さを示した表示があります。実際に17.3mの高さを目の前にすると、いかに高いかが実感できます。この高さの波が襲ってくるのは恐怖ですし、逃げるほかに方法はないと思い知ります。
田老では地震直後は50~70cmの地盤沈下がありましたが、現在では地面が上がって元の高さに戻ってきているそうです。
〇 たろう観光ホテル【震災遺構】
次に向かった『たろう観光ホテル』は、震災遺構として保存されており、駐車場やトイレが完備されています。
震災当時、ホテルはチェックイン前だったためお客様がおらず、従業員もすぐに避難したため、どなたも亡くなっていないそうです。
そのため、震災遺構として残すことができたとのお話でした。
実はこの震災遺構『たろう観光ホテル』は、学ぶ防災ガイド様で事前に予約をすると、建物の中に入ることができます。
理由は誰も亡くなっていないことと、柱がまっすぐに残っていたこと。
津波の大きな力がかかったにもかかわらず、柱がすべてまっすぐだったのは、柔らかくて水に弱い壁だったため、壁がすぐになくなり水が流れ柱に大きな力がかからなかったからとのことでした。
外階段を上がって5階から中に入り、6階の突き当りの部屋で津波の映像を見せていただきます。
たろう観光ホテルの社長は、震災当時ホテルに残って片づけをしていました。そして、この部屋へ避難して津波の来る状況をビデオで撮影していたそうです。
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