前回の話
台風の上陸が予想される中、長野・岐阜県境の山を貫く安房トンネルを越え、車で高山市街へ向かっていた時だった。途中、丹生川(にゅうかわ)町を走っていると、道路脇に「国指定重要文化財 荒川家住宅」と書かれた大きな看板が目に入った。一度は通り過ぎたものの、気になってUターンをし、看板があった場所へと戻った。そこには荒川家住宅と呼ばれている飛騨地方の古民家があった。
荒川家住宅について
荒川家住宅は、天正年間(1573~1591)に地元・大谷村の肝煎りだった荒川家の住居である。肝煎りとは江戸時代の村役人であり、地元の庄屋や名主のことを言う。
荒川家住宅は主屋と土蔵からなる。母屋が1796年、土蔵はさらに古い1747年に建てられており、いずれも国の重要文化財に指定されている。昭和後半まで人が住んでいたものの、1983年、当時の丹生川村が荒川氏より古民家を買い受けて保存修理を行い、公開している。
主屋は2階建ての切妻造になっており、飛騨地方の民家としては大変古いものである。ヒノキの大黒柱、太い松を一本使った梁など、良質な木材が多く使われている。建築年代の古さ、良材をふんだんに使い当時では規模の大きい民家であったこと、建築当初の形をほとんど変えていないことが評価されて、国の重要文化財に指定されている。
受付のおばちゃんに聞いた話
荒川家住宅の玄関を入ると右側に受付がある。私が訪れた時、おばちゃんが一人、座っていた。古民家を一通り見た後に戻ると受付のおばちゃんはテレビのニュースで台風情報を確認していた。
古民家の見学者は私一人だけであった。邪魔にはならないだろうと思い、台風の状況を聞いてみると丁寧に説明してくれた。台風情報を教えてくれた後、おばちゃんは荒川家住宅には太く長い梁やヒノキの大黒柱、幅広の床板など良質な木材が使われていることを実際の使用箇所を指し示しながら解説してくれた。そして、
「そこに座敷があるでしょう。あそこは昔、結婚式など特別な時だけ使われていたんですよ。荒川家の様に大きな家では畳や障子が傷まないように普段は雨戸を閉めていたために家の中は暗かったの。それに比べてうちは普通の家で、そんなのお構いなしだから、雨戸は開けっ放しで部屋は明るかったわよ」と笑いながらガイドブックには書かれていないような部屋の話までしてくれた。
「おばさんも古民家に住んでいたのですか?」と聞くと、
「荒川家のような立派な家ではないけど、子供の頃は同じような古民家に住んでいたわよ」とおばちゃんは言った。
冬の飛騨地方での昔の生活について聞いてみたくなった。個人的に寒いのが苦手で、以前から「現代のような暖房設備がない、昔の古民家での冬の生活はいったいどのようなものだったのか」強い関心を持っていたのだ。ちなみにおばちゃんの年齢は60歳代である。
私が「エアコンやストーブなどの暖房設備がなかった昔の冬は、どんな生活だったのですか?やはり相当な寒さでしたか?」と尋ねると、おばちゃんは、50~60年前の子供の頃の話をしてくれた。
「寒いってもんじゃないわよ。冬になると、漬物が凍るほどなんだから」と笑いながら言った。そして、
「昔の家はとにかく隙間が多くてね。風はもちろん寝ていると粉雪が入ってくることもあるのよ」と言った。そのため、隙間を新聞紙でふさいでいたそうだ。
真冬の暖について尋ねると、おばちゃんの記憶では少なくとも起きている間は常に囲炉裏の火を絶やさなかったと言う。囲炉裏に火があったとはいえ、今に比べるとはるかに寒かったそうだ。荒川家住宅を始め、古民家の柱や梁などは黒光りした焦げ茶色をしているのは、囲炉裏で燃やす木の煙で黒くなるそうである。煙によって黒くなった木材は耐久性が向上するという。
時折、湿っているマキをくべることもあったそうだが、そのような時は家じゅうが煙だらけになり大変だったという。
おばちゃんは、囲炉裏がある場所の天井を指さして、
「天井が格子状になっているでしょう。あの隙間から暖かい空気が2階にもいったのよ」と教えてくれた。飛騨地方では昔、2階で蚕(カイコ)を飼っていた家が多く、寒さで蚕が死ないように暖かい空気を2階へ流す造りになっていたそうである。昔の人の工夫に思わず感心する。
囲炉裏にまつわる思い出話も語ってくれた。おばちゃんは子供の頃、よく囲炉裏に食べものを落としていたそうだ。オモチを落としてしまった時は拾って食べられたものの、味噌汁をこぼしてしまうとしみ込んで食べることができず、よく叱られたと懐かしそうに話してくれた。
冬場の通学についての苦労も教えてくれた。今ならば雪が積もっても除雪車がきれいに取り除いてくれるが、昔はそのようなものはなかった。そのため雪が積もると、まず母親がカンジキで歩いて道を作ってくれ、その後を学校まで片道1時間近くかけて通ったという。
寒冷地での冬の生活の話を聞き、昔の方に頭が下がる思いだった。
そのほかに、家で牛を飼っていたが売ってしまったこと。売った後に牛を飼っていた部屋がおばちゃんたちの子供部屋になってとても嬉しかったこと。中国からの安い生糸が入ってきて、養蚕がすたれていったことなどの話をしてくれた。
おばちゃんとは2度に渡って合計1時間近く話をした。おばちゃんの話は大変貴重であり、それだけでも荒川家住宅に立ち寄ってよかったと思った。しかし、それと同時にどんどんと古民家が少なくなり、住んでいた方も高齢化している今、昔の生活の話を伝え残していく必要性も感じながら荒川家住宅を後にした。
<2014夏休みレポート Vol.6 ~水のまち・郡上八幡~ へ続く>
古民家・荒川家住宅
参考WEBサイト
※そのほか、荒川家住宅に置かれていたパンフレットも参考にしています。
Text & Photo:sKenji
最終更新: