南海大震災記録写真帖(3)

iRyota25

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いよいよ「南海大震災記録写真帖」の第三回目。今回は23ページ以降34ページまでの記事部分をご紹介します。記事の内容は記録、経験者の実話、過去の震災との比較、そして復興に向けての意見と多岐にわたります。記事部分をテキストとして転記するとともに、記事ページの写真を掲載させていただきます。

記事を書き写しながら、竹下増次郎さんの仕事がいかに貴重なものであるか、また、この大巻をまとめ上げる原動力となった「子孫のために伝えなければならない」という使命感の尊さがひしひしと伝わってきました。

南海大震災記録写真帳は、高知県須崎町を中心とした非常にローカルな記録ですが、全巻と通して貫かれている精神は、地域や地方を超えたユニバーサルなものです。たいへん長い記事ですが、ぜひお読みいただき、70年近く前にこの記録をまとめ上げられた人物がいたことの意義を感じ取っていただきたいと思います。

私たちは、ひとりひとりが竹下増次郎さんの後継者であることを忘れてはなりません。

南海・大震災記録

昭和二十一年十二月二十一日

須崎町の被害とその思い出

昭和二十一年十二月二十一日即ち旧暦十一月二十八日であった。この日こそ我々が永久忘れんとして忘れ得ない大震災の日なのだ。

さてその日は季節柄まだ酷寒というほどでもなかったが、年末の寒さは例のごとく、我が南国土佐の野山にもすでに冬は訪れていて、相当身に滲むものがあった。ちょうどその十日ほど前から天気は快晴で毎日照り続いていた。そして人は皆迫り来る新春の喜びとお正月の準備を進めていた。さて二十日の日もすでに暮れた。身を切るような津野山降ろしの西風も夜に入ってピッタリと凪いだ。しかもそれはよく晴れて、月はなかったが星は美しくダイヤのように碧白く光々と輝いていた。夜は次第に更けて、芝居やシネマ帰りの人足もようやく途絶えて、世はまさに静かな眠りへと入った。しかしさすがに眠り切れなかった宵の寒さもいつしか忘れたのか、皆ぐっすりと暖かき夢をむさぶっていた。

さて、時計は二十一日午前四時十九分を指していた。いわば冬の真夜中の事である。グラグラと来た大震動に一同眼を覚まし、スワ地震だというので寝巻のまま床を飛び出したのであった。地震はなかなか大きい――、その瞬間電灯はパッと消えた。視界は一切暗闇だ。もちろん一寸先も見えない。方角も立たない。地震はますます強くなってきた。上下左右に揺りまくるので立っていようにもヒョロヒョロして全く足が立たない。さて私の家は洋館の二階建てであるが、家族七人のうち五名は二階に寝ていたが誰も降りて来ない。しかし降りてくることはとてもむつかしかろう。また、階下にいた者も戸外へ出ることさえ容易でなかった。

この場合、人を顧みる余裕はない。ただ自分の逃げ場を探すのに困難であった。私は星明りを頼りに横門の方へ走った。しかし暗闇に加えて家の動揺でつかまえる物はなく、ヒョロメク足をようやくにして戸外へまろび出ることができた。

この間、危機一髪私の通った後へセメントで造ったボロツコの山が崩れ落ちた。さて外へ出たものの家の近くにいるのは危険ゆえ、すぐ前の八幡宮の社地に逃げのびた。最初鉄筋コンクリートで作った藤の棚の柱に取りすがっていたが、激しい振動のために幾度も振り放されて立っておれず、ようやくにして知覚の桜の木へぎっしりと組みつくことができた。

しかし地震はますます強くなるばかり。世はたちまち阿鼻叫喚の巷と化してしまった。人の叫ぶ声、家の倒壊する音、塀の斃れる音、石垣の崩れる音、瓦やガラスの破れ落ちる音等にて、世はたちまち大修羅場と化してしまった。

さて普通の小さい地震ならば永くて一、二分もすれば停止するのに、なかなか止みそうもない。大小波状形にいくらでもやって来る。私は桜へ組みついたまま、今はじめて家族の安否に気付いたのである。私はまず大声で子供達の名を呼んでみた。何らの答えがない。地震の怖さも忘れてなおも執拗く(しつこく)読んで見たが一向答えがない。次に妻を呼んだ。これまた何らの答えがない。

地震はますます激しい、いつ止みそうにもない。遠方からカアカアと人の叫び声が聞こえて来る。私も思わずその声に合わしてカアカアと連呼した。しかし、もう止みそうなものよ、あんまり事じゃないかと私は無中になって人に言うようにつぶやいた。

そのとたんに町側に添うたセメントの塀が大音響とともに倒れた。とその瞬間幽かな星明りに私の眼に映ったのは、高い洋館建ての私の家であった。ある、ある、我が家は確かにまだある。まだ倒れていない。大丈夫だ。ヨシ頼むぞ、我が家よしっかり頼む。倒れちゃいかんぞ。私は個々のうちで祈りつつ、なおも力一パイ桜の木へしがみついていた。

震動時間九分余(後日判明)、さすがの大地震もようやく停止し、あたかも大暴風の後の静けさに立ち返ったのであった。しかし電灯は消えたまま相変わらず真の闇である。かてて加えて寒さがヒシヒシと身に滲むのを覚えて来た。着のみ着のままであるが、それかといってすく家に戻るのも何だか恐ろしくて、松原の木の下でただブルブルふるえていた。

そのうちようやく一同が戸外へ出て来たので、一同の無事を喜び合ったのでした。さて家族達はアノ地震最中、どこでどんなんいしていただろうか。私は第一それを聞きたかった。

さて家族の話に、妻は地震となるやすぐさま今を飛び出したが真っ暗で方角を失い、ようやく廊下の柱に取りついたまま立ち上がることもできず、そのまま最後まで組みついていたという。一方子供達五人は皆二階にいたが、地震となるや家の振動で立つことができず、そのまま各自の部屋に臥していたというのであった。

さて私の家は二階建ての洋館で高さ三十五尺(約10.6メートル)、須崎でも高い方だが建築の場合基礎工事を厳重にし、木骨なれどラス張り(金網張り)の上に三分径の鉄筋を入れ、なお筋違を充分に用い、金物は遺憾なく使ってあるので頑丈なれば壁1つ破れず、また一枚の瓦さえ落ちなかったのは幸いであった。

時はまさに四時半ごろと思うた。地震後の静けさに星は気味悪く冴え、残月は細長く弓のように箕越の山の端からのぞいていた。フト東野法を見るに須崎駅の方角に当たって暗夜の空が真っ赤にやけていた。アッ火事だ。アレは火事に違いない。火の手はますます大きいらしい。一方の城山は避難民の提灯や焚松で一パイの人に見える。町には警防団の人が三々五々日の用心を連呼して廻っていくのを見た。

津波の襲来

さて、故人の伝説によれば大地震の後は必ず津波が来るという事を聞いていたが、私はとっさにそれを思い出して、真っ暗の中を次男に海を見に行かした。また長男を火災の方へ視察にやった。

やがて次男が帰宅しての報告に、波は静かで平常と変わりはないようだ。塩炊き小屋もそのままとの事であった。そのうち長男の報告に東の方は津波が来て大騒ぎだ。しかも青木の辻より東はどこの町もヌカルミと大きな材木が一パイで通れない。しかし火事はやはり駅前の付近だというのであった。

そのうち海岸地帯に住む人々は皆、荷物を担いで糺町(ただすまち)の方へ続々避難するのであった。その中、知人が私のうちへ荷物を持ち込んできた。人の話に、津波が来て鍛治橋はすでに通れない。中橋も危険になったとの事である。もしそうなれば古市辺も安心できないというので、ボツボツ避難を始めた。しかし盗難のおそれがあれば家を明の巣にして行けないので、私はまず女子供を北の国民学校の校庭まで避難させて、自分は家に最後まで踏みとどまる事にした。

そのうち夜は次第に開け始めた。冬の夜明けの寒さは実に厳しい。しかし東の白むにつれて、人の心にも落ち着きが出来て来た。また明るくなるに従い、八方から種々の状報が次から次へと聞こえて来る。何町の何某の家が倒れて家族が何名下敷きになって死んだとか、あるいは何某の家族の死骸は今掘り出し中だとか、また何某の家族は津波にさらわれて行方不明になったとか、いろいろの噂が聞こえて来る。

ようやく夜は明けはなたれた。人の往来は次第に繁くなった。行く人は皆先ほどの大地震の事を話し合いながら、被害の状況を視察に行くらしい。

さて、ふと思い出したのは自分の釣り船の安否である。一本松の下海岸へ引き上げてあったので、長男とともに見合わせに行った。すると自分の船はおろかその付近にあった船はただの一隻もいない。すでに津波に浚われて跡形もなかった。

さて津波は引いたが、まだ潮の動きはなかなか遽しい(あわただしい)。あたかも大川の流れの如く、ゴウゴウと白波を立てて差し込んできては、また急流となって港外へ引くのであった。その流れはウカバエ(ハエは岩礁のこと)、高礁等に突き当たって真白く渦巻いて見えた。その潮の早さに機帆船や小機船などは錨を入れたまま矢のように引きずられていた。中には津波のために既に海岸へ打ち上げられている大船もあった。また海上見渡す限り一面に家屋や木材その他あらゆるものが夥しく漂流しているのに驚いた。さて津波に襲われた人の話によれば、津波は地震がすむと十五分くらいしてやって来た。その時はゴウゴウと大きな波音を立てて押し寄せて来た。その波は一度は引いたが再び物凄いうなりを立てて第二回目の波が来た。二回目の波は最初の波よりもっと大きかったとの事である。

さて漂流物の中には埋立付近の造船所、製材所、営林貯木場等に山積してあったたくさんな木材と、なお大間の造船所や貯木場等にあった巨材は津波のために一トたまりもなく押し流されてしまった。しかもその木材は須崎町多くの郷村一帯の田も畑も町の中も容赦なくゴロゴロガラガラと百雷の音を立て、押し流されてきたので、その木材のために船も家も突き破られ、押し潰され、しかも暗夜の事故、数多の人は逃げ場を失い、その木に挟まれて溺死した者が無数であった。

また、大間の付近に碇泊中の機帆船数隻は、多ノ郷、土崎の近辺まで流れ込んでいた。もちろん松林のあった桐間の大堤防や鉄道線路並びに土崎街道等は一瞬にして破砕され、西は庄中部落より、東はシヤク丈越、土崎、押岡方面まで大海と化してしまった。そのため汽車はもちろん、一般交通は杜絶し、汽車は吾桑駅より徒歩にて、途中シヤク丈越より大間橋の間は渡船をもって連絡した。渡船係の談によれば、海になった多ノ郷村一体でエソ、チヌ、スズキその他いろいろの魚を毎日一人が六七貫(22.5~26.25キログラム。1貫は3.75キログラム)捕獲したと話していた。

また新荘方面の津波の被害もかなり物凄く、津波は下郷付近まで来たので、たくさんの漁船や機船などが遠く長竹付近より高沖辺の田畑や道路の上へノコノコ坐っていた。また、この辺でも魚をたくさん拾ったものがあった。また、西町入り口と新庄駅方面の堤防ならびに角谷天皇池の堤防が切れたので、その辺一帯が海となった。また、一方糺の池は堀川のユル(取水口の栓)が崩れたため海水が浸入し、山から山の間は一面の海となり、大昔の糺池を想わしめた。さて糺池は昔より大鯉が棲むので有名であるが、今回の津波のため鯉は潮に酔いて捕獲せられ、ほとんど全滅したという。

地震の被害に就いて

さて、今度の地震は上下水平に揺すったようであるが、主として南北に強く揺すったのは事実である。その証拠には倒壊した家のほとんど全部が、南北いずれかに倒れていた。そして南北に長く建てられた家屋はおおむね倒壊をまぬがれ、被害の程度も低いようであった。

また、家財道具のうち箪笥や水屋(食器棚)の如き背の高いものを南北いずれかに向けて置いたのは皆倒れていたが、東西に向けて置いたのはそのままでいたのを見ても証拠づけられる。

次に、暴風と火災等に備えるために造った昔風の土蔵造り、いわゆる富豪連の住宅や酒蔵等の如き大きな建築物は、ほとんど全部と言いうるものが莫大な被害を受けていた。あるいはあながち土蔵造りでなくとも、家に重荷を負うた建物で数十年も経過した家屋は、いかに大きな木材を使ってあっても、皆倒れたり、柱のホゾが折れたりして半壊となり、あるいは瓦の全部がずれたり傾斜したりして、ほとんど満足なものは一軒もなかった。

ここに不思議に強かったものは洋風の建物であった。銅板張り、竹張り、ラス張り、鉄筋入り等いずれにせよ、その上をセメントで堅めたいわゆる西洋風に建築した家は、たいがい倒壊をのがれた。ことに私の家は最初記した通りの建て方であるが、かの大地震に壁ひとつ落ちず、破れず、また家に少しの狂いも出来なかったのは、確かに洋館建てのおかげであると思う。

次になお一つ不思議に思う事柄は、今回の大地震はその揺り方に筋道があったように想う。もちろん素人考えではあるが、被害の箇所が軒並みに、しかも規則的筋道を作っていた。例えば、電光の如く地震の通り道といったように被害の道が出来ていた。すなわち横町筋、中央は青木の辻の南北筋、東は旧桟橋通りより真っ直ぐ駅前通りに至る筋。かくの如く西から順に五百メートル位ずつ離れて南北に流れて強く被害を受けていたのは事実である。

さて、顧みるに横町から東へ行くにつれしだいに被害が大きく、反対に横町より西へ行くに従い被害が少なくて、西町の家は一枚の瓦も落ちなかったというのさえあった。また堀川の南側より北側の糺町、池山、池の内方面の家の損害が少なかったのは南側の如く砂地でなく、山土で地盤が堅いためではないかと考えた。また、地割れの行ったのは主に堀川通りと新、旧桟橋と埋立地の路面であるが、これは要するに砂地であるのと掘り上げた土の関係で土地が軟弱なるが故であろうが、いずれにせよ以上の被害状況については、相共に将来大いに注意を要する問題ではあるまいか?

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