震災を伝える2つの記事

sKenji

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昨日、3月11日。各地で東日本大震災の追悼イベントが行われました。

北海道から沖縄の離島まで、全国各地のほか、アメリカ、台湾などの海外でも追悼式典が行われたそうです。勤務している職場でも、全社員が会議室に集まり、14:46から黙とうを捧げ、その後、東日本大震災のこと、防災のことについて話し合いました。

今朝の新聞は、昨日3月11日に行われた各地の追悼式典や、3年前の震災を改めて伝えるニュースで溢れていました。その中から、2つの記事をシェアさせていただきます。

1つ目は、お年寄りを助けて、津波の犠牲になった高校生のご両親の話です。

あふれる涙を拭っても、悲しみと後悔は消えない。お年寄りの避難を助け、津波にのまれた福島県いわき市の高校2年、工藤盛人(もりと)さん=当時(17)=の両親は11日、同市豊間地区の追悼式で花を手向けた。

 子供の頃は体が弱かった盛人さん。父の功(いさお)さん(54)は小学生の息子が台風で打ち寄せる大波を見て「津波が来たらどうするの?」と尋ねられた場面を忘れられない。「ここは来ないから心配いらね」と答えたことを、今もずっと後悔している。

 震災後、がれきの中から出てきた小学2年時の文集には「自分の家のことまもります」と書いてあった。

 「家が大好きだったんです。高校卒業後の進路も、自宅から通えるところがいいと話していました」

 母の弥生(やよい)さん(50)が目元を拭う。ボランティアが見つけてくれたり、友人たちが持ってきてくれたりした写真で新たに作ったアルバムを繰りながら、功さんが絞り出した。

 「盛人…おろかな親で、ごめん」

 震災後に引っ越した今の家からは、海は見えない。

 あの日、入試時期で高校が休みだった盛人さんを置いて、両親はそれぞれ仕事に出た。弥生さんはその日に限って、息子の昼食にてんこ盛りのチャーハンを作った。上機嫌の盛人さんが弥生さんに言った。

 「お昼が楽しみ」。それが最後の会話となった。

 激しい揺れの後、弥生さんが自宅に戻ろうとすると、みぞれが降り始めた。漫然と「息子はいないかもしれない」と思った。

 トンネルを抜け、飛び込んできたのは衝撃的な光景だった。海も道路もがれきだらけ。盛人さんを捜し回ったが、見つからない。急ごしらえの遺体安置所で、物言わぬわが子と対面したのは翌日だった。元気な17歳に育ったのに…。

 なぜ逃げなかったのか。両親は半月後、息子の最期の様子を知る。警察から「福祉施設の男性が盛人さんを捜している」と連絡があり、男性の話で、あの日の盛人さんの行動が明らかになった。

 揺れの後、外に出た盛人さんは、土地勘がなかった男性に声を掛け、「手伝いますよ」と施設のお年寄りを担架で高台のホテルまで運んだ。その後「じいちゃんとばあちゃんを助けに行く」と言い残し、海の方へ戻っていったという。

 「どうして一緒にいてやれなかったのか悔やんでいたけれど、最期まで盛人が精いっぱいやったと知って、少し納得できました」と弥生さんは振り返る。

 息子が残したかけらを拾い集める日々は続いた。

 友人から「GReeeeNを歌わせたらピカイチだった」と聞いたときは驚いた。机の引き出しに鍵をかけ、親への隠し事も増える年頃。息子のカラオケなど、両親は一度も聞いたことがなかった。

 震災時に家に遊びに来ていた別の友人は盛人さんにバスで逃げるよう言われ、バス停まで送ってもらったと証言した。お年寄りを助けたのはその後だろう。

 仲違いしたまま永遠の別れを迎えた友人は「今度会う時仲直りできるといいね」と書いた色紙を両親に託した。友人らの話には、両親が知らなかった盛人さんの姿が多くあった。

 今年1月、同級生は成人式を迎えた。「盛人も一緒に連れていくから」と友人が写真を持って参列してくれた。友人たちの中に盛人さんは確かに生きている。

 アルバムをめくると、思い出話をすると、どうしようもない寂しさが募る。それでも、母はこう思う。

 「忘れられちゃうほうが寂しいもの」

【ぽたるニュース】東日本大震災3年 忘れない 福島 力強く生きる - 産経新聞 - ぽたる

2つ目の記事は、津波で曾祖母、祖母、母の3人を亡くした、当時中学生の方について書かれた記事の一部です。

津波で母の理子(りこ)さん=当時(35)、祖母の則子さん=同(64)、曽祖母の文(ふみ)さん=同(83)=を亡くした。彩加さんも3人と一緒に自宅にいたが、がれきの上に逃れて助かった。右足ががれきに挟まった理子さんを助けようとしたとき、再び津波が襲って来た。

 このままでは自分も犠牲になる。「行かないで」。そう言う母に「大好きだよ、ありがとう」と泣きながら伝え、近くの小学校へ泳いだ。3年前の3月11日は中学校の卒業式だった。「いま思い出しても涙の止まらない選択」。つらい記憶だけが残った。

【ぽたるニュース】東日本大震災3年 忘れない 宮城 つらい体験伝え恩返し - 産経新聞 - ぽたる

記事によると、菅原さんは、今、スイスにあるアメリカンスクールに留学しており、卒業後は日本の大学でジャーナリズムを学んで、「震災で親を亡くしたことで、親のいない子がたくさんいることを知った。そうした現実を伝えたい」と話しているそうです。

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参考WEBサイト

 紹介記事掲載WEBサイト:MSN産経ニュース
sankei.jp.msn.com  

Text:sKenji

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