つつじ野 第5回「震災体験-4」

onagawa986

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家族を助けに女川へ行くには車が必要でした。歩くのもやっとの祖父母と2歳の末っ子がいたからです。震災2日後の早朝、桃生の避難所から意を決してヒッチハイク。運良く停まってくれた1台目の車が、実家近くまで行くと快く乗せてくれました。

実家へ駈け込むと、驚いた父が「女川に車で行ってみだげっとも、雄勝からも石巻からもどっからも行がいねがった!」と言います。ありがたいことに私たち家族を心配し、既に前日に女川へ向かってくれていたのです。

「でも今日はどんな事しても絶対女川に行く。車貸して!」そこへ祖母が心配そうに「わらす(こども)達は大丈夫なんだっちゃ?」と聞きますが、「ゴメン、生きてっかどうかも行ってみねっけ分がんないの…」

絶句する祖母に「必ず連れで来っから待っててよ!」と言い残し、父と主人と3人で女川へ出発しました。道路が浸水や陥没で通れず迂回しながらの道のりはやけに遠く、気持ちばかりが焦りました。

なんとか女川へ入り、浦宿へ辿り着くと異様な光景が飛び込んできました。何台もの車がまるでミニカーを無造作に放り投げたかのように、ありえない格好で道路の脇に折り重なっています。

「まさかここまで津波が? 嘘でしょ・・・?」

海は全く見えない何キロも離れた場所です。しかもひと山越えた場所。鼓動が勝手に早まり大きくなるのを自分ではどうにも抑えることが出来ません。道行く人に「こっから先、車はムリ」と言われ、女川バイパスに車を停め歩き始めると信じ難い光景が姿を現しました。

「なにこれ・・・?」

ガクガクと震える体から、この一語を絞り出すのがやっとでした。建物という建物が全て破壊しつくされ、まるで原形を留めていません。爆弾でも落されたの? 津波なんでしょ? なんでこんなに高い場所がメチャクチャになってんの? 頭の中が凄まじいスピードでグルグルと回り現実を受け止められません。

「女川、無ぐなってしまった・・・!」

およそ20メートルの高台の町立病院(女川町地域医療センター)へ辿り着くと、そこにもひっくり返った車が何台も折り重なっていました。そこから見えるのは見渡す限りの灰色のガレキの山。死んでしまった街並み。あまりにも残酷すぎる光景でした。

石浜のわが家の方を望むと主人の顔色が変わりました。近視の私には見えないのですが、家がないと言うのです。焦る気持ちで道なき道を進み、ガレキを乗り越え、かつて住居だったのであろう場所を登ったりくぐったり、通れる場所を探しながらわが家を目指しました。

辿り着くとむき出しの玄関のタイル。少し先の国道398号線に見覚えのあるわが家が横倒しになっていました。津波の威力に言葉も出ません。

そんな過酷な条件の中、私たちの家族は奇跡的にも全員生きていたのです。

小学校の帰りの会の最中、激震に見舞われた上の子2人。その日は運良く卒業式の総練習で帰りが遅くなっていたのです。もしも下校途中で地震に遭ったら、どこにも逃げ場はありませんでした。

義弟は町内の居酒屋に勤め、職場で地震に遭ったのですが、社長が割れた食器をかたづけているのをやめさせ、自宅へ戻るよう指示したそうです。しかし、その時まで一緒だった社長の家族2名が逃げ遅れ、犠牲になってしまいました。

自宅では歩くのもやっとの祖父と祖母に、まだオムツの2歳の末の子。3人に上着を着せて、義母がまずやったことは、暗くなる前に安全な居場所を確保することでした。廊下や居間を片付け、懐中電灯とラジオを用意したそうです。恐ろしいことに「そのときは津波が来るなんて考えもしなかった」と・・・!

義弟も家に戻り、私たち夫婦が帰って来たら車を停められるようにと、玄関の割れた植木鉢を片付けに外へ出たところ、キュキュキュキュという音。なんだ?と思い海に目をやると・・・

「引き波の後に来る」とばかり思っていた津波が、もうすでにわが家のすぐ下の坂道を上って迫っていました。その音は流されたガレキ同士がこすれ合う音だったのです。

「津波だー!」義母は大声をあげ、末の子を抱き上げ、祖父母を車へ押し込み、車を発進させると同時に、津波は音もなくスーっと、開けっ放しの玄関へ入って行ったそうです。何か荷物を持とうなどという暇は一切なく、まさに間一髪でした。

「お母さん遅いよ!」私を見つけた3人が笑顔で駆け寄り、私は2日ぶりに子供たちを抱きしめました。お義母さんはその様子をみて、手で顔を覆い、声をあげて泣いています。私は子供たちの顔を見たらきっと泣くのかな? とずっと思っていたけど涙は出ませんでした。

「もう大丈夫!」

全然大丈夫じゃ無いのに、何をどうすればいいかもわからないのに、自信も根拠も無いのに強がって、とっさに「大丈夫」と嘘を言うことしか出来ませんでした。ああ、みんな生きていてくれた、もうそれだけで何も他には考えられません。

「みんな生きていてくれたから、大丈夫」そう自分自身に言い聞かせていたのかもしれません。

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写真と地名について

左の写真は、女川から国道398の坂道を上っていったところに横倒しになっていたわが家です。右は反対側から見たところです。この建物が残っていたおかげで子供たちのアルバムすべてを回収できたのは不幸中の幸いでした。回収した二日後には救助の道を作るため、既に重機で取り壊されていました。

・浦宿
女川町のほぼ西端にある集落。石巻から女川に向かう女川街道は、万石浦という湾の北側を走り、浦宿から上り坂を越えた後、女川中心部への下り坂をたどります。

・石浜
女川湾に南向きに面している集落です。町の中心からは国道398号を雄勝方向に1キロと少し行った地域です。

女川町石浜エリア

那須野さんの自宅があった地域です

つつじ野連載について

この記事は石巻エリアの地方紙「石巻かほく」紙上に2013年6月から掲載していただいたものです。女川のママ友から頼まれ、「あんたの頼みなら!」と引き受けたものの、8回分のお品書きを考えると・・・それだけで悩みました。いざ書き始めると700文字の制限に苦労しました。「この言葉足らずの表現で読む人に本当に伝わるの?」とハラハラしていましたが、いざ第1回が掲載されると朝から電話とメールがとまりませんでした!

8回の連載のうち4回は震災の話です。書いている時には「ここまで書く必要ある?」と悩んだこともありました。それでも「当時の様子が手に取るようにわかったよ」と言ってくれる方も数多くいました。「石巻地域以外の人にも読めるようにしてほしい」と勧めてくれる知人もいました。そんな声に後押しされて、この場をかりて記事を公開させていただく次第です。被災地で起きたこと、被災地のいまについて少しでも知っていただき、そして災害から家族を守ることを考えていただくきっかけとなれば幸いです。

那須野公美

最終更新:

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