「オレの心は女川にある」
息子の口から出た言葉です。
女川から石巻に転校して出来たお友達のお母さんが「息子さんこう言ってたんだよ」とこっそり教えてくれたのです。驚きました。
震災当時まだ一年生だった息子は、帰りの会が行われる教室で激震に遭いました。
「机の下にもぐり脚を握ったけど机ごと倒れそうだった」
「校庭に整列したけど津波が来たから、総合体育館の山を目指してみんなで走った」
「低学年を真ん中に高学年が丸く囲んで寄り添い、ブルーシートをかぶって雪から守ってもらった」
そして三年生だった娘は、
「夜は教室でみんなで円になってカーテンをかけて寝たけど、寒いし余震も怖くて眠れなかった」
「翌日のお昼に炊出しがあって、保育所の小さい子から順番に並んで私の少し手前でウインナーがなくなっちゃった、ごはんとスープだけ食べたんだ」
「次の日になっても家族が迎えに来ないのは私ともう一人だけだった。だからパパもママもダメかと思った」
後に聞いた二人の体験談はどれもこれも「よく耐えられた」と思うものばかりでした。
小学校の隣にあった給食センターの食材で翌日のお昼に炊出しを行い、子供たち優先で提供してくれました。でも地震が発生したのは週末の金曜日。食材も乏しく、まして何千人もの避難者へ行き渡る食料や水はありませんでした。
冷凍施設から津波で流出したサンマをガレキの中から拾い集め、側溝の鉄格子の蓋で焼いて食べたり、流された自動販売機を探し出し、男手でなんとか壊して飲み物を取り出し子供やお年寄りに届けたり、皆が必死でした。子供たちも暖を取るための焚き木を拾いをしたそうです。生きるために協力し合いそれぞれの役割を果たしていました。
娘と同様に家族が迎えに来ていなかった子は、お母さんと祖父母が自宅で津波の犠牲になりました。実はそのお母さんと震災の5日前ショッピングセンターで偶然会い、混み合ったお昼時に合席をしていたのです。信じられませんでした。
すぐに迎えに行けず子供たちには心細い思いをさせましたが、同級生のお母さん方が察してくれて少ししかないお菓子を分けてくれたり、夜一緒に寝てもらったりと気遣っていてくれました。
ひとクラスしかない同級生はみんな仲が良く、両親はもちろん爺ちゃん婆ちゃんまで知り合いの間柄。子供のおかげで自然と親同士のコミュニティは築かれていたのです。
息子の「オレの心は女川にある」という言葉には、女川で生まれ育った六年間の充実した思いが凝縮されている気がします。だから、石巻で再建後もやっぱり女川が気になるし、恋しくなる。家族共通の想いです。テレビで女川のニュースが流れれば「ほら!静かに!女川やってるよ!」と、家族で食い入るように見つめてしまいます。それを見て娘が「やっぱり女川小に戻りたい」ボソっとつぶやきます。「そうだね・・・」私も同調してしまいます。「何にも無いけどやっぱり女川がいいな~」懐かしそうに、愛おしげに、お義母さんがつぶやきます。
家族みんな女川が大好きなのです。
今でも女川のママ友、パパ友で集まり親子で交流しています。子供達も親同士も笑顔で会話が弾みます。その中で「那須野さんって女川大好きだよね」と言われ素直に嬉しかった。女川での十年間はかけがえのない宝物です。
女川で築いた繋がりを絶やさずに、石巻でも新たなコミュニティを築いていきたいと思っています。
つつじ野連載について
この記事は石巻エリアの地方紙「石巻かほく」紙上に2013年6月から掲載していただいたものです。女川のママ友から頼まれ、「あんたの頼みなら!」と引き受けたものの、8回分のお品書きを考えると・・・それだけで悩みました。いざ書き始めると700文字の制限に苦労しました。「この言葉足らずの表現で読む人に本当に伝わるの?」とハラハラしていましたが、いざ第1回が掲載されると朝から電話とメールがとまりませんでした!
8回の連載のうち4回は震災の話です。書いている時には「ここまで書く必要ある?」と悩んだこともありました。それでも「当時の様子が手に取るようにわかったよ」と言ってくれる方も数多くいました。「石巻地域以外の人にも読めるようにしてほしい」と勧めてくれる知人もいました。そんな声に後押しされて、この場をかりて記事を公開させていただく次第です。被災地で起きたこと、被災地のいまについて少しでも知っていただき、そして災害から家族を守ることを考えていただくきっかけとなれば幸いです。
那須野公美
最終更新: