息子へ。被災地からの手紙(2013年3月21日)

iRyota25

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2013年3月21日 世界中の人に伝えたいこと

知り合いが海外で震災についてのワークショップに参加することになって、被災した地域の人たちの感情や気持ちを表現する言葉をたくさん教えてと頼まれた。「その時、どんな状況で、どんなことを思ったのか」を共有するのが目的だという話だった。

◆これまで東北で出会った人たちのことが世界に伝えられるのはありがたい。ご要望に応えるべく書き上げてみました。

絶望。喪失感。無力感。自分を苛める気持ち。手を伸ばせなかったことへの悔恨。もしもあの時こうしていたら助けられたかもしれないという思い。

希望。使命感。とにかく前へ進もうという気持ち。小さなおにぎりを半分とか四分の一に分け合った後、自分の分を小さな子どもに上げた時の気持ち。たぶん、誇りと意地と義務感と愛情がひとつになったような感情。後ろを振り向かないようにしようと決意したこと。走ってないと辛いことを思い出すから走り続けようという気持ち。

怒り。人間の正体を見たという憤り。震災直後に食料を独り占めした町の権力者のグループ。支援物資を囲い込んだ人々。取るだけとって、後で不用なものを捨てるという支援慣れした態度。被災地の応援に来た芸能人を陰でけなしていた子どもたち。炊き出しされた食べ物を「まずい」と言って捨てていた子どもたち。

達成感。みんなで泥出しを頑張って「2トンダンプ10台分出しました!」と報告された時のうれしさ。がれき撤去ボランティアで「今日は土嚢袋いくつ」などの報告を受けてガッツポーズする時の一体感。「ボランティアさんありがとう」とお茶とかお菓子を出してもらった時の気持ち。必要とされていることのありがたさ。

キーワードやフレーズを列挙しようと思ったけれど、書いているうちにだんだん長いフレーズになっていく。

そして気がついた。ことばにできない気もちがまだまだたくさんあるということ。

気もちを一言のことばに置き換えることができるということは、ある意味、それだけ癒されているということなのかもしれない。

まだまだ解決されていない感情が、たくさんある。

なので、いったんキーワード列挙を諦めて、見たり聞いたりしてきた状況を抜き書きすることにした。

◆これまで各地で聞いてきたことばを思いつくままに記します。

海や川に近づきたくない。

地震が来たらどうしようという不安もあるが、あの日のことを思い出してしまうから。

近づきたくない、ではなくて、近づくことができない。フラッシュバックで身動きがとれなくなる。

停電し、携帯の電波も届かず、情報源といえばカーラジオくらいしかなかった11日の夜、自分がいる地域の名前がラジオに流れない不安な気持ちが忘れられない。

1時間に1回くらい、「女川」という単語がラジオから聞こえてきた。でもそれは、「女川町の被害については、役場と連絡がとれず、わからない」というものだった。夜通し、同じ放送が繰り返された。見捨てられているという思いが強かった。

ラジオで聞いていると、「仙台市の荒浜地区の海岸で、200人から300人のご遺体が流れ着いているとの情報があります」と言っていた。その100人もの差はなんなのか。人間の命をそんなふうに大雑把な数字で括っていいものなのか、と思った。

避難してきたみんなが手持ちの食べ物を出した。あめ玉、チョコレート、せんべいなど。いったん全部集めてから、人数分に割って配ると、チョコレートひとかけ、とかあめ玉半分とか、そんな数にしかならなかった。そんな状況で、不安な夜を明かした。

救援はすぐには来なかった。夜が明けてから、みんな少しずつ動き始めた。家族を捜しに行く人、食べ物や水を探しに行く人、避難した場所の近くのご遺体に毛布やシートをかぶせる人。それぞれができることを、少しずつ始めていた。絶望感の中で黙々と。

3日目、ようやく自衛隊の人たちが到着した。地元の建設業の人も手伝って、道路をひらき、車が一台通れるスペースを確保してくれた。なんとか車が通れるようになって、自治体の職員の人などがボランティアで入って来てくれた。長崎や広島の人たちが早かった。ありがたかった。

みんな自衛隊に感謝している。直後には自衛隊の人たちと一緒に捜索や遺体の収容をした一般人も多かった。でも、自分たちだけでは力が足りないところを、自衛隊の人たちが助けてくれた。

ようやく自宅のまわりの片づけが始まった頃、震災から1週間くらい経った頃だったか、津波と火災のがれきの中にたくさん魚が転がっていたのよね。気仙沼は加工場が多いからね。とくに冷凍倉庫からあふれてきたマグロ。ぱっと見た時に、「人じゃないかしら?」って思ってぎょっとするのよ。

◆直後のことを、直接の言葉で表現する方は、今でもほとんどいらっしゃいません。でも、捜索の話やマグロの話から想像すると、被災された方たちが体験されたことの重さや深さが想像することはできるはずです。直接的な表現をされない言葉の向こうにあることを意識することは大切だと思います。

「ご家族が行方不明」という方は、これまで何十人ものご遺体と対面してこられた方なんだよ。それでも、まだ出会うことができていない方なんだよ。そう教えてもらった。

廃車置き場に積み上げられた津波被災車の山。持ち主が判明した車は、スクラップ処分になる。いまもまだ残る車は、まだ持ち主が見つかっていないということ。そう教えてくれたのは大船渡の新沼さん。石巻にも南三陸にも、いまでもたくさんの車が積みあがっている。あの車の山を見るたびに、持ち主のことを思ってしまう。

津浪は長い坂道を上ってきて、自分の家の一軒手前までやってきました。お隣さんは全壊です。ご近所には亡くなられた方もいらっしゃいます。でも、自分の家は無傷だった。家族も無事だった。車も残った。服も食料もまるごと無事でした。でも、そのことが逆に苦しくて。半年後、母は病気になりました。

あの日があって、いまに続いていると思うんだ。みなさんお元気だし、笑顔をくれたりするけど、だけど、あの日を経験したこと。私たち外から来た人間には、いくら教えてもらっても理解できない経験があって、いまの笑顔があるということだけは忘れてはいけない。

みなさん大きな傷を負っているんです。それでも「笑おう」と、前に向かって歩く決意をした方がいらっしゃれば、私はその人のことを全力でサポートしたいと思う。

共感する力って大切だと思っていた。自分が経験してないことを想像したり、ひとの痛みを自分のものとして感じるための基本的な力だと思うから。でも、ある人から「共感しているようじゃダメなんだ」と言われた。その人の苦しみを自分のものとして苦しまなければって。

家も仕事もなくして、廃墟と化した町を丘から見下ろしてはため息をついていた。絶望しかなかった。避難所で知り合いと出会っても、失ったものの数を語って慰め合っていた。でも、ある時「でも、がんばっぺ!」と知人に向かって言ってしまった。自分だって落ち込んでいたのに。その時、がんばらなければダメなんだないうことを思った。

◆海外の人たちに話すなら、今回の地震の基本的な説明も必要だろうと考えて、以下を追加しました。

≪日本の東北地方、太平洋沿岸の津波被害≫

東北地方では、古くから大きな津波被害が繰り返し発生してきた。しかし、ここ数世代にわたって、地域の人々は人命が損なわれるような大津波を経験していない。多くの人命が失われた津波として、同地方で最後に起こった1960年のチリ地震津波では、東北地方を中心に国内で142人の死者、行方不明者を出したが、この時の最大津波高は6.5メートルほどだった。今回の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)による津波は、計測されている遡上高さで約40メートル。2万人を超える犠牲者の大半が津波被害によるものだった。

今回の津波は1000年に一度と言われるが、半世紀前の津波被害の記憶さえ、多くの人々には伝えられていなかった。チリ津波以降、津波警報が発令されることは何度もあったが、数メートルの津波が到来することはなく、数十センチの水位変化のみだった。さらに、地震発生の2日前にも津波警報が出される地震(前震)があったが、そのときも同様に数十センチの水位変化があっただけだった。

(チリ津波についての証言)「チリ地震の津波を経験した人なら、すぐに逃げなければという気持ちになったと思う」

そう話す人がいる一方で別の人は、こんなことを話してくれた。

「チリ津波を経験した年寄りたちが逃げなかったんだよ。チリ津波では、町の一部は水没したけれど、水の勢いが弱かったから、海が引いた時に浅瀬で跳ねている魚を拾い集めて、津波が来たら高台に駆け上がるなんてことを繰り返していたからな」

チリ津波被害を経験した場所によっても、印象は大きく異なっている。今回のあまりにも甚大な津波被害に関しては、過小評価する人などいないだろうが、この記憶を将来にわたって伝えていくことが大切だ。

≪原発の爆発事故と今後の地震≫

世界中で発生する地震の1割〜2割が日本周辺で発生するとされる。しかし、地震には活動が活発な次期とそうでない次期が繰り返し訪れる。

日本列島周辺で地震活動が活発だったのは、第二次世界大戦末期から終戦直後の頃が、以前の活動活発期だったとされる。南海トラフを震源とするプレート地震や、それに関連する活断層型の地震が頻発し、とくに名古屋圏では軍需産業が大きな被害を受けて、戦争の遂行に支障があったほどだった。

その後、日本の地震活動は平穏期を迎える。

戦後の日本の経済復興は、たまたま地震平穏期に重なったことも幸いしている。そして、日本で稼働し、国別に見て3番目に多い50基以上の原発がつくられたのも、たまたま幸運にも地震活動が停滞していた間のことだった。

阪神淡路大震災後、日本の地震活動が活発化したとされる。日本の原発は1カ所をのぞいて停止中だが、地震の活発期に入ったことを考慮すると、きわめて危険な状態にあると言えるだろう。

たくさんの人が、考え続けてくれる助けになってくれるとありがたい。最後の部分は要点を整理して書いたつもりだから、お前のレポートの資料としても使えるんじゃないかな。

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