前編のあらすじ
今月18日、岩手県陸前高田市が「陸前高田市東日本大震災検証報告書(案)」を公表した。それによると、指定避難所に避難したにも関わらず、多くの方が犠牲になっていた。一方で、助かった人は、避難所よりもさらに高い高台へ「積極的に避難」をしていたケースが多いことが報告されていた。
積極的な避難。笑われても10年間。
約10年の歳月をかけて、「積極的な避難」に取り組んでいた男性がいた。宮城県東松島市の野蒜(のびる)地区に住む、佐藤善文さん。以下、2011年3月31日付朝日新聞の記事です。
「津波なんてここまで来るわけがない」
そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。
東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。
避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
佐藤山から西へ直線距離でおよそ700mの場所には、指定避難場所・野蒜小学校があった。しかし、同小学校では、津波に襲われて、約20人の方が犠牲になっている。
佐藤さんは「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は避難場所に指定されなかったそうだ。
「佐藤山」に避難をして、一命を取り留めた男性がいる。その方は、佐藤さんの作った避難所について、
「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」
と、感謝をしながら語っていたという。
野蒜地区・佐藤山
指定以外の避難場所の検討と積極的な避難を!
指定避難所へ避難することに対して、否定的とも受け取られないようなことを書いたかもしれないが、決して、指定の避難場所を否定するつもりはない。東日本大震災以降、各自治体などは、これまで以上に厳しく避難所の見直しを行っている。避難先として、まず最初に検討すべきは、指定された避難場所だろう。
けれども、注意しておくべきことは、「避難するように指定された場所が、必ずしも安全の保証をされている場所というわけではない」ということである。
状況によっては、「指定された場所以外へ避難する」ことが、生死の別れ目となる。そのことを、検証報告書案のアンケート結果や、津波に襲われた避難所があった事実は、物語っている。
指定以外の避難する場所についてだが、災害が発生してから考えていたのでは遅い。津波により、児童・教職員合わせて84人が死亡・行方不明 になった宮城県石巻市立大川小学校では、地震発生から津波に襲われるまでに、51分間の時間があった。しかし、そのうち約40分間は、「どのように行動するのか」、「どこに逃げるか」などについて、「議論」が行われていたという。また、最終的に決断した避難先についても、危険であり、誤った判断であったと、事故検証委員会によって、報告されている。
大川小学校
後編最初に紹介した、「佐藤山」がある野蒜地区では、多くの方が津波により亡くなっている。佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、
「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」
と悔しさもにじませていたという。
もうすぐ、東日本大震災から3年。この時期に、もう一度、指定避難場所の確認と、災害状況毎に指定以外の避難場所も、検討しておいた方がいいのではないだろうか。
参考WEBサイト
Text:sKenji
最終更新:
iRyota25
積極的な避難をする上で、何を基準に逃げ場所を考えたらいいのか、ヒントはないのですか?
どう考えればいいか分からなければ、指定避難所に頼るしかなくなってしまいそうです。
sKenji
コメントありがとうございます!
返信が長くなりそうですので、今日、ぽたるページで書いてみようかと思います!