5月30日に全線で運行が再開されたJR仙石線。とくに津波被害が大きかった野蒜(のびる)駅と東名(とうな)駅は、500m~600mも山側に移動し、該当区間の線路も移設された。もう二度と列車がやってくることがなくなった旧・野蒜駅だが、東松島市はこの駅のプラットホームを震災遺構にする方針を固めたという。石巻日日新聞や河北新報など地元のメディアが伝えた。
震災の後に見た野蒜駅はまったく悲惨な状況だった。駅舎やホームの構造物は残ってはいたものの、線路は砂に埋まり、駅名看板はゆがみ、あちこちに津波で流されてきた遺物が残されていた。生活の雰囲気を残すさまざまな物が駅舎の脇にまとめて積み上げられていたのを目にして、これはガレキなどというものではないのだと教えられた。駅前の街路灯がひん曲げられていたのも衝撃的だった。
何より切なかったのは、駅前広場や通り沿いに「仙石線を早急に復旧させよう」という手書きのノボリが何本も立てられていたことだった。
かつて野蒜駅は奥松島方面への玄関口だった。駅から海にかけては住宅や飲食店、宿泊施設が並んでいたという。しかし、津波は人々の生活の場を押し流し、海から800m近くも離れている駅や線路を越え、高台に近い小学校に避難した人たちの中にも犠牲者が出た。車で逃げている途中で車ごと津波に流され線路を越えた先で、押し寄せてきた他の漂流物を伝って奇跡的に助かったという「えんまん亭」さんの話も思い出される。津波の高さは駅付近でも約3.7mだったという。折れた街路灯を見れば津波の破壊力が分かるだろう。
それでも当時、野蒜駅近くには「必ず帰って来る」などの横断幕を掲げた被災住宅が少なくなかったのだ。手書きのノボリも地元の方々の「立ち上がるんだ」という決意の現われだと心にしみた。
旧・野蒜駅は仙石線が一部バス代行だった頃にも停車場として機能し続けた。この駅でバスを乗り降りする人も少なくなかった。
駅舎は改修されて、ファミリーマートも入居する地域交流センターとして活用されてきた。しかしホームはほとんど被災当時のままだった。
東松島市では震災遺構の候補として、旧・野蒜駅のプラットホーム、旧・野蒜小学校、旧・浜市小学校、かんぽの宿松島の4つを絞り込み、先月パブリックコメントを実施。駅が地域のシンボルだったこと、宮城県内で唯一の駅施設の遺構候補であること、整備費・維持費が比較的安価であることなどから、旧・野蒜駅を選定したという。
人々が集い、復活に向けての思いが寄せられてきたこの駅のホームが、震災遺構としてこれから長く震災と復興の歴史を語り続ける場所になる。周辺をメモリアル公園として整備する構想もあるという。もう電車が走ることはなくても、人々の思いが行き交う場所になってほしい。
JR 旧・野蒜駅
※ 余談ながら――。各地で震災遺構の解体撤去が進められる中、積極的に遺構を残す道を選んだ東松島市。このニュースを聞いた時、復興に向けて常に先手をとり続けてきた阿部秀保(あべひでお)市長の顔が思い浮かんだ。顔見知りの市の職員の方、団結して事に当たる東松島住民の知り合いのことを思わずにいられなかった。
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