自閉っ子の睡眠事情その後

pamapama

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その後の娘の様子です。

うれしいことに良く寝てくれるのは続いていまして、夜中に起きることがだいぶ少なくなりました。

ただしパニックの方は最近また増えてきました。一番寒い大寒の時期、季節の変わり目である節分・立春の時期は毎年かなり機嫌が悪いので、気温や気圧が原因かもしれません。

「まず野菜」。糖質は後回し

また、朝までぐっすり寝ることが増えたため、起きた時にはすごくお腹が減っているらしく、ベッドを出るといきなり怒っていることもよくあります。

興奮を抑えるくすりは食欲も出てしまいますが、主治医の先生曰く「食べることをがまんさせることはできないから、食べ物を工夫するしかないですね」とのこと。

ということで、夕食はスープや炒め物などでまず「野菜中心プラスたんぱく質」のメニューを食べ、少し時間を置いてから炭水化物込みのメインを出すようにしています。

そんなママの工夫と努力のおかげで、先月から今月は久しぶりに体重の増加は「なし」!

これを地道に続けていくしかありません。がんばります。

パニックの方は、ちょっと様子を見てみます。

「キャベツ太郎」インスパイアのキャベツ炒めという画期的なメニュー
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カリフラワー(かな?)など野菜たっぷりのスープ
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合理的配慮とユニバーサルデザイン

以前このページで「合理的配慮」や「ゆずりあい駐車場」について書いたことがあります。

自閉っ子旅行の難関「食事処」で起きたうれしいこと by pamapama
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自閉っ子の駐車場事情(ウチの子の場合) by pamapama
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合理的配慮とは

合理的配慮の考え方は

合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるよう、一人ひとりの特徴や場面に応じて発生する障害・困難さを取り除くための、個別の調整や変更のことです。

合理的配慮とは?障害のある人の権利と事業者の義務、職場における合理的配慮の具体例を紹介します | LITALICO仕事ナビ

というものです。

お世話になった宿が特別なものや大がかりな対応を用意するのではなく、娘の特性に合わせて食事の場所や配膳を工夫してくれたことが合理的配慮。

「ゆずりあい駐車場」の場所が店舗や施設の入口近くにあることも合理的配慮と言えるでしょう。

ユニバーサルデザインとは

障害者のサポートに関しては「ユニバーサルデザイン」という言葉を聞いたことがある方も多いはず。どういうものかというと

ユニバーサルデザインとは、「特別な製品や調整なしで、最大限可能な限り、すべての人々に利用しやすい製品、サービス、環境のデザイン」を言います。

ユニバーサルデザインとは?定義や事例、バリアフリーとの違いを詳しく解説します!【LITALICO発達ナビ】

つまり、障害者「だけ」に使いやすいデザインではなく、障害者「にも」使いやすいもの、すべての人に使いやすいものにしていこう、というものです。

「ゆずりあい駐車場」はハンデのある方専用ですが、スペースが広く取ってあることは誰にとっても使いやすいですから、全ての駐車スペースがあれぐらい広くなったら、駐車場全体がユニバーサルデザインということになるでしょう。

最近は「多目的トイレ」が増えています。あれはハンデのある方専用ではなく「誰でもご使用いただけます」と書いてあります。広く、設備が整っていて、単体としては誰にでも使いやすいユニバーサルデザイン。

ただしこれも数が限られていますし、オストメイト対応のトイレはまだかなり少ないですから、すべてのトイレがそうなるのが理想ですね。

ユニバーサルマスクとは

ここ数年たまに耳にするようになったのが「ユニバーサルマスク」という言葉です。コロナ禍において、健康な人も含めた「すべての人がマスクをする」ということです。

同じ「ユニバーサル」ではありますが、ユニバーサルデザインが「誰かに合わせた結果、ほかの誰かが不快な思いをすることがない」のに対し、健康上の理由や信条によってマスクをつけられない人にまで一律に着用を求めるユニバーサルマスクには、強い違和感を覚えます。

「困り度」と「差し伸べる手」

わたしが「うちの子は障害があって、こんなことに困っています」と発信することは「みんなうちの子に合わせてください」というお願いではなく「こういう子がいると知ってもらう」のが第一の目的です。

困っているのはうちの子だけではなく、障害者だけでもなく、いろんな人がいろんなことに困っています。それを知ることで、その「困りごと」に対してできることそれぞれを考えるのが合理的配慮だと思います。

どの困りごとにどれだけの手が差し伸べられるかついては、いろんな困りごとが見えた上で何ができるかが考えられると良いと思います。しかしどうしてもそこに「困り度アピールプレゼン」の得意不得意や有利不利があるというか。

コロナに関しては「コロナによって亡くなった人・命の危険がある人」が大きくクローズアップされすぎて「その人たちのために『みんな』がマスクを」という巨大なキャンペーンが3年間も続いたことが、とても大きな過ちだったと思うのです。

わたしの身内にも基礎疾患のある者と高齢者がいますが、今までインフルエンザの流行時にそこまでの怖がり方をしていなかったからです。マスクも、花粉症などの方を除けば、インフルエンザの流行時などに体調が悪い人だけがしていたものでした。

全ての死因の中でコロナが占める割合や、マスクの効果についていろいろ調べた結果、コロナをここまで怖がり続けるのは間違っていると考えています。

マスクができない娘が、緩和ケア病棟にいた母に会えなかったこと、わたしたち家族が母の最期を見送れなかったことも、コロナによる死と、そのほかの原因による死、それぞれをどう捉えるかにおいて、大きくバランスを欠いていると思います。

口と鼻をふさぎ、表情を隠すようなものを、子どもたちにまで3年間もつけさせてしまったこのマスク社会を1日でも早く終わらせて、元の生活に戻るべきだと思います。

そうでないと、自分が発信している娘のことも「困り度アピールプレゼン大会」「ここだけクローズアップしてよ合戦」の一部とみなされて、かえって埋もれてしまうように思えるのです。

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