【復興記録写真】岩手県陸前高田市 [2016年1月下旬]

sKenji

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2016年1月末、岩手県陸前高田市を訪れました。前回、行ったのは1年半ほど前だったのですが、その時の印象とはだいぶ変わっていました。そう感じさせたのは間違いなく「盛土」です。

盛土の高さは最大で12メートルといいます。車高およそ3メートル前後と思われるトラックよりもはるかに大きい土の山が壁のように視界を遮っていることが、印象を大きく変えていました。以前、新聞記事がのり面の崩壊を懸念する地元の方の声を報じていたことを思い出しました。

圧迫感を覚える盛土ですが、上から見るとどのように見えるのかが気になりました。住宅などはこの上に造られるわけであって、下から見るのとは異なった印象であってほしいと思います。

震災遺構として保存が決まっている道の駅・タピック45を初めて見たのは震災の翌年です。その時と変わらない姿がありました。盛土によって印象がだいぶ変わった陸前高田ですが、タピック45はこの先も多くの人に震災の怖さを伝えていくのだと思いました。

ただ、震災遺構の保存については賛否両論あります。個人的には震災の怖さを伝えるために残してほしいとは思うものの、復興が進み、かさ上げされた土地に地元の方が戻って生活をし始めた時、残されたタピック45が与える心理的な影響について不安も少し覚えました。

その理由はタピック45が浜辺に造られる高田松原津波復興祈念公園の中央付近にある巨大な震災遺構だからです。

地元の方がかさ上げされた土地で暮らし始めた時、日々の生活において自然と海の方を眺める人も少なくないのではないかと思います。その際、タピック45の位置を考えると、どうしても視界に入ってしまうように思うのです。復興が進み、真新しい建物や公園が造られた中に建つ震災遺構はひときわ目立ち、それが地元の方の目にどのように映るのかが気になりました。

奇跡の一本松のモニュメントまでは、車を停めておける最寄りの場所から歩いて片道20、30分、往復すれば1時間くらいかかります。この日は女川まで行く予定だったために先を急ごうかと思ったのですが、近くで見ることにしました。

なぜなら、これから復興が進むであろう陸前高田において、この先も変わらずここに残り、街の移り変わりを見ていく上で基点のひとつになると思ったからです。

5年後、10年後、この松の木の周りがどのように変わっていくのか楽しみです。

今回、初めて「希望のかけ橋」を見ました。役目を終えた橋に「お疲れ様でした」と声を掛けたくなります。約120億円という総工費に反対に意見もあったと聞きます。自分も少し疑問を感じたこともありました。しかし、今考えると大幅な工期の短縮は地元に方にとって、お金で変えられないものをもたらしたのかもしれないと思いました。解体される前にその勇姿を見ることができて良かったです。

陸前高田で最後に訪れたのが気仙中学校です。中に入ることはできませんでしたが、外観からでも津波の破壊力が十分に伝わってくる震災遺構です。

陸前高田の震災遺構の条件のひとつは「犠牲者が出なかった建物」といいます。震災時、校舎は津波に襲われたものの、全員近くの高台に避難してひとりの犠牲者も出さなかったそうです。防災訓練で避難していた場所よりもさらに高い高台へ逃げたことが誰一人、命を落とさずにすんだことにつながったといいます。

気仙中学校は自分にとって、「より高い所への避難の重要性を伝える震災遺構」として刻みたいと思います。今後、この場所を訪れる度に少しでも高い場所への避難の大切さを思い出したいと考えています。

陸前高田市

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