生きている限り生き続ける。生きているからここにいる——。そんな声が聞こえて来る。
おそらく北帰行していったのだろう。3月11日の前には陸前高田の空を飛ぶ白鳥の姿は見られなくなっていた。
なのに3月も下旬になったある日、気仙川沿いの国道340号を走っていて、並行するように低く飛ぶ白鳥の姿を目にしたのだ。自動車を運転中ではあったが、首をまっすぐに伸ばした飛翔形といい、大きさといい、その姿はオオハクチョウそのもの。
びっくりした。
まさかこんな時期に白鳥に会えるなんて思わなかったから。だけど、群れのほとんどが北へ飛び立ってから2週間になるのに、どうしてこの子はここにいるのだろう?
翼を怪我したから? いや川沿いに飛ぶ姿を見たのだ。じゃあ、短距離なら飛べても、シベリアまでの長い道のりを飛ぶことができないような事情、たとえば病気とか怪我とか? そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
なぜ?
そんな疑問などとは関わりなく、彼、あるいは彼女はここにいる。カメラの望遠レンズを向けても逃げるどころか近づいてこようと、気仙川上流の水の段差を乗り越えようとしたりもする。
松日橋の近くの河川敷で桜の植樹が行われて、川沿いに人がわんさかやってきた時には、上流のワンド(カヤックや沢登りなど川のスポーツの用語で岸辺に湾のようにくぼんだ場所のこと)に避難していた。そして今日は、国道側から姿が見えなかったので、対岸の細い道に入っていって、この辺にいるんじゃないかなという場所に下りていくとビンゴ!
彼、あるいは彼女は10メートルも離れない川の上にいた。
これまで会った時には距離もあったし、いつも悠然たる雰囲気をかもしていた彼、あるいは彼女だったが、突然玄関先にお邪魔したような格好だったからなのか、少しばかりは驚いたのかもしれない。
それでも逃げるように飛び立つでもなく、時折ゆっくりと首を回してこちらを見つめたり、また川面に目線を戻したりと、その仕儀は泰然たるもの。
こんな場所で冬を、いや夏を越せるのだろうかと当然のこととして心配になる。しかし彼、あるいは彼女の姿はあまりにも泰然としている。夏が来るならこい。冬が来ようものなら待ち受けよう。獣の害? そんなもの、もとより承知の上だ、とでも言うかのごとく、首を伸ばしたり、羽根を広げてみたりしている。
翼を折ってしまったのか、怪我をしたのか、病気なのか、あるいは何かここに残りたい理由があるのか、もしくは残るべき因果や因縁が存在するのか、はたまた美しい姿を敢えて晒すことで私たちに何かを伝えようという思いがあるのか——。
彼、あるいは彼女は今日も気仙川の上流にいる。
群れが北へと飛去ってからほぼ1カ月。それでも彼、あるいは彼女はここにいる。
たとえその環境が過酷なものであったとしても、彼、あるいは彼女はここで生きることにした。ここに残り、ここに生きる。
ここに生きることがどれほど大変なことであったとしても。
この川沿いを走るたびに、白鳥がどうしているのか気になって仕方がない。この白鳥に会いたくて仕方がない。会えない時には、単独で北へ飛び立ったのだろうと希望的に考えたりもするが、悲惨な情景が脳裏に浮かぶこともある。「おらが撃ったんだ。いやあ美味かった」とガハガハ笑う猟師の顔、あるいは岸辺に散乱する白い羽毛。そんな情景がまぶたに浮かんだ後に、川面に佇む白鳥の姿に出会うと、思わず涙してしまったりもする。
彼、あるいは彼女が群れにはぐれてしまったのは間違いないだろう。
だけど生きる。生き続ける。たとえ本来の形でなくても。かつて思い描いていた人生でなくても、彼、あるいは彼女は死ぬまで生き続ける。この場所で。
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