八重桜の花言葉

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背中の言葉

「そんなに愛でるようにして写真を撮ってくれてありがとう」

背後からの声に少なからず驚いた。気仙川の上流部、住田町の谷戸で見つけた見事な八重桜。ぽつりぽつりと小さな雨粒が落ちてくるような天気だったので、華やかな美しさや季節の移り変わりの勢いといったもののある写真にできなくてあれこれ悩んでいたときだったから、ということもあるかもしれない。

松日橋から徒歩で10分ほどの場所なのに、この辺りから急に谷が深くなる。背後からの声の主である女性は、道路から一段上の自宅の庭から、八重桜の前でうなっているぼくの姿を見て、道路まで下りてきて声をかけたらしい。

八重桜の木は道路の向こう、気仙川の土手にあり、すぐ隣にはハナズオウが濃いピンク色の花を咲かせているが、桜と川の間には杉の木が植えられていて、その先は崖のような急斜面が川面へ落ちていく。そんな場所柄だから、対岸の国道からはよく見えない。地元の人が「町道」と呼ぶこの道を歩いていてはじめて出会える見事な八重桜なのである。

「きれいですね。でもなかなかうまく撮れないんです」と、思っていることをそのまま白状するように言うと、

「そんなに元気ではないのですよ」と意外な言葉が返ってきた。

「えっ、少なくともピンク色の八重桜ではこの辺で一番美しいと思いますよ」と、これもまた思っていることをそのまま口にした。ここから5分ほどの国道沿いにある閉店した酒屋さんの店先のものも甲乙つけがたい見事さだが、そちらは白系の八重である。

気配らしきものを一切感じることなく、いきなり声をかけられた動揺がまだ収まっていなかったようだ。初対面なのに思わずこころの中をさらしていた。

その日の八重桜
その日の八重桜

病気の子を慈しむ親のこころ

気配を感じさせないとか、意外な答えとか言うと、つっけんどんな人みたいに聞こえてしまうが、彼女は人懐っこそうな笑顔の人なのである。わざわざ道まで下りてきて話しかけるくらいだから、社交的というべきだろう。それなのに何か欠けているような、引っ掛かるような感じがする。近づけそうで近づけない感じとでもいったような。

「前はね、本当にきれいだったのよ。あなたが言ったようにこの近くで一番だった。その頃は本当に、本当にきれいだった。いまよりもずっと」

彼女はガードレールのすぐ近くに立ち、腕組みして桜を見上げた。

「だけど、きれいだと思いますよ。鮮やかで、あでやかで」

彼女はぼくの顔をじっと見て、それから、「そうだといいんだけど」と、突然、咲きこぼれるような笑顔で言った。

「実はね、枝を切られてしまったの。誰が切ったかは言わないけど」

こんどはぼくが黙り込む番だった。

「物語の国」の東

「あなたさっき、写真がうまく撮れないって言ったけど、それも枝を切られてバランスが悪くなったせいもあるのかもしれない。切られて無くなってしまった枝に花が咲かないのは当たり前だけど、切られたところの近くの枝まで死んでしまったみたいなの。今年は花も葉の芽もない。それにね、形のバランスだけじゃないのよ。咲いている花にしても、前に比べるとずいぶん元気がないの」

目の前には、見事なピンク色の八重桜が広がっている。腕組みした彼女には確かに見えているらしい「切られた枝」も「花も葉の芽生えもない枝」も、ぼくからは見えない。彼女の言葉が絵空事のように聞こえてしまうのはどうしたことだろう。

種を明かすのはまだ早すぎるかもしれないが、この八重桜のことが気になって、ぼくはその後も何度も足を運んだ。二度目は最初のときの翌日で、たったの一日で急に花が散ってしまうなんてことはないはずなのに、前日にはどうしても見えなかった枯れた枝と、黒く朽ちた切り口が目に飛び込んできた。花は木全体の半分ほどを覆っているばかりで、残りは死んでいるか死につつある様子だった。

その後も近くに行くたびに桜のもとに立ち寄って、花が終わったあとも枝振りや葉の出方を見たりしている。行くたびに写真も撮ったが、最初のときのように背中から声をかけられることはその後はもうない。振り返って彼女が下りてきた家を見ると、庭は草ぼうぼうである。不思議なことに、花が終わるころには、彼女の顔も思い出せなくなった。花がきれいとかそうでもないといった話ばかりでなく、「八重桜はソメイヨシノに比べれば強いというから、きっと傷も恢復しますよ」「そうかしら、そうだといいんですが」とか、八重桜のことをあれこれたくさん話したし、ぼくであれ彼女であれ、返答に窮して考え込んだりするときには、相手の横顔を見つめたりしていたのだが。

その翌日の八重桜
その翌日の八重桜

八重桜の花言葉は……

気仙川の上流域は遠野と尾根ひとつで接している。柳田国男の「遠野物語」、井上ひさしの「新釈 遠野物語」に描かれた風土がいまもそのまま息づいている。キツネやカッパ、山人が住んでいる世界だ。だから彼女が桜の精だったとしても、とりたてて不思議だとか怖いとか思うこともない。住田はもとより陸前高田、大船渡、それに井上ひさしが描いた釜石あたりでも、遠野物語と同じ質感の不思議な話を当たり前のことのように聞くことがときどきある。季節が一回り、二回りするくらいの時間を過ごしていると、その質感の話を不思議だと感じなくなってくる。そういうこともあるんだろうな、と無批判に受け入れている。それがなじむということなのかもしれない。

だから、あの日、桜の木の前で語らったのが八重桜の精だったとしても、それは別にかまわない。そういうこともあるんだろうな、と思うだけだ。だが、気になるのは、あのときの彼女の言葉が「自らを嘆く」ものではなく、「子の行く末を案じる親の思い」以外のなにものでもなかったことだ。

彼女の年格好が、若い娘を持つ母親といった感じだったことも影響しているのだろうが、八重桜のことを話している彼女は母的なもの(あるいは、こと)そのものだった。病気か怪我で衰えていくばかりの子を看病しながら、もはや母の言葉すら聞き取れないほど弱ってしまった子に、「お前はこのあたりで一番だったんだよ。むかしのように元気な姿を見せておくれ」と繰り返す人。

その一方で、もしもこの子が滅びるのなら、滅びるということも含めて愛そうと烈しい思いのなかにもがく人。

彼女が桜の精ではなく、桜の親に当たる存在なのだとしたら、ぼくは彼女のことを何と呼べばいいのだろう。八重桜の花言葉は、愛(あるいは、愛着)をとおしてブッダの声につながっていくような気がする。

愛ゆえの不安、愛ゆえの苦悩。愛着ゆえの……(未完)

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