400年前、道慶さんが目にしたもの

iRyota25

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むかしむかし、いまからもう400年もむかし、陸前高田に村上道慶という人が住んでいなすった。道慶は西国出身の武士の家柄だったが、伊達の殿様の頃に大肝煎のお屋敷のあった今泉村に移り住んで、村人たちに読み書きなんかを教えて暮らしていたそうな。道慶はやがて気仙川の対岸の高田村に引っ越したが、そこでも塾を開いて子どもたちに読み書きを教え続けた。高田村の人たちはもちろん、今泉村からも子どもたちは川を渡って道慶の塾に通ってきた。村の人たちは「道慶さん、道慶さん」と彼を慕っていたそうな。やがて、高田村の人も今泉村の人も、みんなが道慶さんの教え子になった。なにしろ道慶さんは80歳を過ぎるまで、ずうっと村の子どもたちの塾を続けていなすったんだから。小さな童子(わらしっこ)たちはもちろん、お兄ちゃんお姉ちゃん、お父さんお母さん、おっちゃんおばちゃんたちも、みいんなが道慶さんの教え子だったのす。

今泉村と高田村の間を流れる気仙川は、いまもむかしも恵みの川だ。春には白魚、夏には鮎、そうして秋にはたくさんの鮭が上ってくる。たった一回の漁で千も二千も鮭が獲れたっていうんだから大したもんだ。しかし、気仙川は恵みの川ではあるけれど、手のつけられない暴れ川でもある。大水が出るたんび、川は流れを変える。いまも跨線橋に名前が残る奈々切っていうのは、堤を何度造っても流される、三回や四回じゃきかない、七度造ってもまた堤が破られてしまうってことからついた地名なんだとか。ちょうど気仙川がぐるっと東向きに流れを変える場所だったのっす。

道慶さんの時代にも、気仙川は何度も氾濫を繰り返した。そうして道慶さんが80歳を過ぎた頃、これまでも増して大きな洪水があって、田畑がまるごと流されてしまった。今泉村でも高田村でも人々は困窮した。実りの秋に実りがまったくなくなってしまったからだのす。

その年も秋の終わりになると鮭は群れをなして気仙川を上がってきた。村人たちにとってはまさに天からの恵み。しかし困ったことには、鮭漁の主導権を巡って今泉村と高田村の間ではこれまでも諍いが絶えなかったのす。この年、高田村の村人たちは余計な争いを避けようと、夜が開ける前に気仙川に出て鮭を獲ったそうな。それに対して今泉村の人たちは「夜明け前にこっそり鮭を根こそぎ獲ってしまった」と争議した。「何を言う、高田の川で鮭を獲って何が悪い」と高田村の人たちは跳ね返す。大洪水で川は大きく流れを変えていた。田も畑も流された。道すら判然としない。気仙川が今泉村のものなのか高田村のものなのかなんて、誰にも分からなかった。話し合いで済むようなことではなくなっていた。

力づくでぶん取るしかねえ。

争いが始まった。流血の事態になった。今泉と高田の両村のみんなが教え子である道慶さんが仲裁に入った。何とか争いをおさめようと走り回った。しかし、道慶さんがどんなに説得したって、どちらの村の人たちも矛を収めようとはしなかった。洪水で田畑が流されてしまった人たちにとって、気仙川の鮭は命をつなぐもの、いや自分たちの命そのものだったからだのす。道慶さんが仲裁に走り回っている間にも、血で血を洗うような争いは続いたんだそうな。道慶さんの心中はいかばかりだったことか。

なにしろ、石つぶてやこん棒を手に殴り合いの喧嘩をしているのは、みんな可愛い教え子たちなのす。何年か前には道慶さんの塾で仲良く遊んでいた子どもたち同士が血を流しているのす。そして、争いを止めようといくら声を嗄しても、殴り合いは一向におさまらないのす。

また争いがあった、またケガ人が出た、こんどはどこそこの誰が大ケガした。そんな話を聞くたんび、嘆きはゴツゴツした岩のように大きくなって心を破り、無力感はガランドウな秋空を天まで突き抜けていったに違いない。そして道慶さんは心を決められたのす。

「私は80年も生きてきた。この先はもう長くないだろう。今生の世に未練があるとすれば、今泉村と高田村の諍いだ。私は気仙川で自ら首を刎ねることにする。私の首が流れ着いた方の村が今年の鮭の権利を取り、来年以後は毎年両村が交互に鮭を獲るようにすればいい」

道慶さんは、両岸に山が迫る竹駒村から気仙川沿いに平野が広がる境目の誂石(あつらいし)で気仙川に入ってゆき、川の真ん中で本当に自分で自分の首を刎ねて果てられてしまったのす。

道慶さんの首がどちらに流れ着いたのか。

首は今泉村に流れ着いたとか、今泉村に流れ着いたのは胴体の方で、首は高田の岸辺に流れ着いたんだとかいろいろな話が伝わっています。もう400年もむかしの話なので判然としないし、いまさら確かめようもないでしょう。しかし、道慶さんの首がどちらに流れ着いたかは、両村の人々にとってもはや意味をなさないことだったのです。今泉村の人々も、高田村の人々も、争うことの愚かさを道慶さんの死によって悟り、以後は一日おきに出漁する取り決めになったといいます。

誂石の道慶さんの祠

陸前高田の人たちと親しくさせてもらう中で、道慶さんの話を耳にする機会が増えている。震災後のまちづくりが進む最近になって、とくによく聞くように感じるのは、実際に道慶さんが話題になることが多いのか、わたしが道慶さんのことを意識するようになったからなのか分からない。

ただ、村上道慶が「道慶さん」「どけさま」と呼ばれて地元の人たちに親しまれてきたことは間違いない。かつての今泉村にも高田村にも、道慶さんを顕彰する石碑がたくさん残されている。気仙川に面した誂石には道慶さんを祀る祠があって、むかしから大石集落の人たちの手で大切に守られてきた。森の前という集落にあった五本松も道慶さんゆかりの地として有名だ。近所の子どもたちの遊び場で、震災前には子どもたちの声が絶えることがなかったというこの場所にも道慶さんの顕彰碑があったという。

たとえ道慶さんの話を詳しくは知らなくても、この地域の子どもたちは顕彰碑がある広場を走り回りながら、ずっとむかしにこの土地に生きた偉い人のことを、近しく感じていたに違いない。五本松は津波をもろに受け、残念ながらいまは高くかさ上げされた地中に眠っている。

大石の七夕祭組にはまらせてもらっていて、道慶さんのことを聞くこともしばしばだ。最初に七夕に参加させてもらった年、祭組の長老と若手のリーダーが「今年も道慶さんから回りますか」と、山車のルートについて話し合っているのを耳にした記憶がよみがえる。町に向かって進むものと思っていた山車が、大石の坂の下、大石交差点を右折して気仙川沿いまで進んでいくのを、山車の上で笹を振りながら不思議に思ったものだったが、その川沿いの場所こそが誂石、道慶さんが自刎した場所だった。

後に誂石の道慶さんの祠がある場所なんだと教えてもらい行ってみようと思っていたが、すでにかさ上げ工事で道路が通行止めになっていた。今年の虎舞の後のなおらいで、竹駒から気仙川の土手をたどれば道慶さんまで行けると教えてもらって、工事が休みの日にようやく誂石の道慶さんを訪ねることができた。

道慶さんの教え

道慶さんの物語は「自刎」という言葉があまりに鮮烈過ぎて、心がそちらに引っ張られてしまうが、村の人々、教え子たちへの愛情、そして自らを殺めるまで思い詰めた無力感、さらには道慶さんの死語長く語り伝えられてきたことの方がより大切なのだと思う。

誂石から気仙川を望む。道慶さんが最後に目にした川の風景だ。道慶さんの時代とは川の姿も変わっていることだろう。それ以前に、震災後に造り変えられようとしている町の姿は、当時とはまったく違うものだろう。

町が根こそぎ無くなって、新しく造り直されている現在の状況は道慶さんの時代ともどこか通じるところがある。最近になって道慶さんのことをよく耳にするように感じるのが、実際にそうだからなのか、わたしが道慶さんのことを意識するようになったからなのかは分からないが。

※ 道慶さまの物語は地域の人からの口伝え、道慶さんの墓がある光照寺の説明文のほか、陸前高田昔がたりの会、Web東海新報などを参考に作成しました。

 陸前高田昔がたりの会
mugashi.exblog.jp  
 Web東海新報|道慶の遺徳を改めて知る日に、19日に光照寺で「道慶忌」/陸前高田
tohkaishimpo.com  

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