陸前高田の復興住宅に暮らしているお母さんと話をしていて、ふとシロツメクサのことで盛り上がった。
盛り上がった話の前にふたつほど注釈をつけておく必要がある。「お母さん」とは呼ぶものの、お孫さんもいらっしゃるくらいだから、実は「おばあちゃん」と呼んでもいいくらいなのだ。しかし、どうにも彼女のを「おばあちゃん」と称するのはそぐわない。とにかく若々しいからだ。よって、彼女のことは以後も「お母さん」あるいは「小母ちゃん」と呼ぶことにする。(食べ物がいいせいか、空気がうまいからか、こっちの方はそんな人ばかりなのだが……)
もうひとつは、シロツメクサのことで彼女、もといお母さんと盛り上がった時期のこと。お母さんとはこれまでも、しょっちゅう会ってお喋りしたり、お茶っこしたり、体操したりしてきたのだが、シロツメクサの話になったのは今年の春先が初めてだった。そうだ、春先のことだから、お母さんとシロツメクサのことを話したときにはシロツメクサは一輪も咲いていなかったわけだ。
それでも、シロツメクサという言葉だけで「あのころ」が別々の頭のなかによみがえり、そのイメージが共有できた。実は、いまに至るまでシロツメクサの映像や画像を見せ合ったことはない。お母さんが撮ったシロツメクサの写真を見せてもらったり、ぼくが撮影したのを見せたりしたわけではない。それでも一言でことが足りた。
「そう! あの年は津波の跡地一面がシロツメクサでいっぱいだった」
その言葉だけで十分だった。それくらい、あの年のシロツメクサは見事なものだったからだ。
前後の年はどうだったか。たしか前の年、具体的には2012年にもシロツメクサを見かけた記憶はあるが、2013年のような「一面がシロツメクサのお花畑」というような印象をこころに刻み付けられることはなかった。しょぼかった。ではその翌2014年以降はどうか。もちろんシロツメクサは咲いていた。でも、シロツメクサ以外の野花もたくさん芽吹き、伸び、花咲きまくっていた。いわば雑草の天国みたいな状態だった。
だから、「シロツメクサでいっぱい」というと2013年。津波から2年を経た春の、その年ならではの光景だった。
そしてその年のシロツメクサのお花畑は、陸前高田だけではなく石巻のまちなかでも大川小学校の近くでも同じように花盛りだった。
津波で荒らされてしまってからある時間を経た後に現れるシロツメクサのお花畑。他の植物がコロニーを拡大することができないうちにいち早く、荒れ地を覆い尽くすシロツメクサ。そしてその翌年には多種多様なお花畑の中のひとつの種という位置に後退してしまうシロツメクサ。
津波被災地のシロツメクサには、その他の植物に先駆けて大成長する特質があるのかもしれない。そうでなければ、シロツメクサが大繁茂した結果、土が肥やされて翌年以降はその他の植物が繁盛できる状況になるのか。シロツメクサはマメ科の植物だ。土の中に肥料の成分である窒素を取り込む力を持つ植物だから、どちらの作用もあるに違いない。
シロツメクサには花言葉として「幸福」「約束」「私のことを思ってください」「私のものになってください」などがあるらしい。
でも、被災地でのシロツメクサを見ていると、もっと別の花言葉を宛ててもいいのではないかと思えてくる。
それは「先駆け」。あるいは「復活の希望」。もっというなら「必ずやってくる未来」といったことば。
シロツメクサを見ていると、そんなふうに思えてくる。
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