【世界一周の旅 Vol.38】民族融和を願う街のシンボル、スタリ・モスト

sKenji

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ボスニア・ヘルツェゴビナを南北に流れ、アドリア海へと注ぐネトレヴァ川。その中流域にヘルツェゴビナ地方の中心都市・モスタルがあります。

街には川を挟んで東岸にボスニア人、西岸にクロアチア人が住んでいます。そして、両地区を結ぶようにネトレヴァ川に架かるのが、街のシンボルである世界遺産「スタリ・モスト」と呼ばれる橋です。

旅行出発前にはその存在すら知らなかったスタリ・モスト。行ってみようと思ったのは、川の両岸に架かる美しいアーチを写真で目にしたことがきっかけでした。「一目見たい」。その思いでクロアチアのドブロブニクからバスで向かったのでした。

スタリ・モストの歴史

ボスニア語で「古い橋」を意味するスタリ・モストは、オスマン帝国占領時代の1556年に建造された歴史ある石造アーチ橋です。全長約28メートル、幅約4メートル、川面からの高さはおよそ21メートル(※水位によって変動有)もあります。

橋は街の象徴だけでなく、現在では民族の融和を目指すシンボルとしても知られています。

実は今あるスタリ・モストはボスニア内戦の際に一度破壊され、そして修復されたものなのです。

死者20万人、難民・避難民200万人を生じさせ、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける最悪の戦争とされるこの内戦の背景は少し複雑です。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてオスマン帝国領であったことからイスラム教徒であるボスニア人が人口の半数近くを占めています。そして、その他にセルビア正教会を信仰するセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人がいます。

同国は第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦国家に属していたものの、ユーゴスラビア紛争が発生すると独立を宣言します。

当初は連邦国家の中心であったセルビア人に対してボスニア人とクロアチア人が手を結んで戦っていました。

しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土分割交渉がきっかけとなり両者は対立。その結果、三者が入り乱れてボスニア内戦が繰り広げられたそうです。

スタリ・モストはこの内戦時の1993年11月、補給路を断つためにクロアチア人勢力によって破壊されました。

街のシンボルであった橋は紛争終結後、民族融和への願いもこめられてユネスコ事務総長等の呼びかけにより、壊された橋の石材を川から回収して修復工事が始まります。そして2004年、以前の美しい姿が蘇ったのです。

スタリ・モストからの飛び込み大会

私がモスタルを訪れたのは2005年のことでした。修復工事が完了した翌年になります。当時は内戦も終結し、一部の建物に弾痕など戦争の爪あとが残ってはいたものの、一見平和なように感じられました。

しかし帰国後、モスタルを特集したテレビ番組で、内戦が終わった後もクロアチア人とボスニア人の間にわだかまりがあることを知りました。

紛争が終結したのは1995年。家族や友人など大切な人の命が奪われたのですから、相手を簡単に受け入れることができないのは想像に難くありません。

そのような心のしこりが残る両地区を再び結ぶことなったのが、修復されたスタリ・モストです。

この街のシンボルを訪れた時、橋の上から数人の若者が川へ飛び込んでいました。観光客にチップを求め、ある程度集まると飛び込みを披露していた記憶があります。なんでもこのダイブの歴史は古く、400年以上も前から大会が開かれていたそうです。

テレビ番組の特集ではこの大会に参加する選手たちに焦点をあてて紹介していました。

内戦前、大会には民族の違いに関係なく選手が出場していたそうです。しかし内戦後にはボスニア人しか参加しなくなります。そのような中、ひとりのボスニア人選手が民族の融和を願い、クロアチア人選手の参加を促すというものでした。

一度破壊され、そして修復されたスタリ・モスト。地理的だけでなく、両地区の心の交流も取り戻してほしいと切に願います。

モスタルのスタリ・モストは戦争がもたらした痛ましい過去と民族融和の希望を伝える象徴的な橋です。

 〈「【世界一周の旅 Vol.39】古代遺跡と現代建築が同居する街、ローマ」 へ続く〉
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スタリ・モスト

前回の話

 【世界一周の旅 Vol.37】輝きを取り戻したアドリア海の真珠 by sKenji
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