ホーチミンで見ておきたかった主な場所を見終えると、その日の夜出発のダナン行の寝台列車までにはしばらく時間があった。
長時間の移動に備えて腹ごしらえでもしておこうかと思いながら、ファングーラオ通り付近をぶらついていると、路上にある1台の屋台に目がとまった。
移動用のタイヤがついた机ほどの小さな屋台で、店主は元気の良さそうなおばちゃんだった。ガラスでできた上半分には棚が3段あり、食材が所狭しと載せられている。おばちゃんは注文があるとそれらの食材で手際よくバインミーと呼ばれるベトナムのサンドイッチなどを作っていた。脇には小さなプラスチック製のテーブルとイスが置かれており、客はそこで注文したものを食べることができた。
なぜその屋台が気になったかはよくわからないのだが、なんとなく引き寄せられように近づいていった。
店には先客が一人いて小さなイスに腰を掛けていた。50代前半くらいの男性で、顔はベトナムの強い日差しで浅黒く焼けている。
私が近づくとそのおじちゃんは表情を一気に崩し、顔全体をしわくちゃにした笑顔を見せた。そして、そばに積み重ねてあったプラスチックのイスを1つ取ると小さなテーブルの脇に置き、「ここに座れよ」というようにポンポンと二度ほど座面を叩いた。
私は出されたイスに腰をかけると「こんにちは」と笑顔で言った。すると彼は何やらベトナム語で話しかけてきた。
恐らく「どこから来たんだ?」と聞いているような気がしたので「ジャパンだよ」と短く答えると、おじちゃんは嬉しそうに屋台を営んでいるおばちゃんにベトナム語で何かを伝えた。きっと「日本人らしいぞ」といったようなことを説明したに違いない。
私は、彼が食べていたスープのないフォーのような食べ物を指差して「同じものを」と注文をすると、たどたどしい英語で料理の名前をおじちゃんに尋ねてみた。しかし、彼には伝わらなかったようなのでジェスチャーを交えて再度聞いたが、それでも理解してもらえない。
「わからなくても別にいいか」と思っていると、その様子を見ていた隣の店で働いているお姉さんがやって来た。彼女は英語を話すことができるらしく、ベトナム語に訳して伝えてくれた。
おじちゃんとは手振り身振りと片言の英語で会話をし、通じない時には隣の店のお姉さんが通訳をしてくれた。とにかく日に焼けた顔を一気に崩して見せる笑顔が印象的なおじちゃんで、江戸っ子のようなきっぷの良さがあった。しゃべっているとしまいには
「この日本人にもジュースを出してくれ」といったようなことを屋台のおばちゃんに言った。しかし、待ちきれないのか、おばちゃんが動き始める前に勝手に近くにあった小さな冷蔵庫からジュースを1本取り出すと、私に渡して「お金は俺が払う」とジェスチャーで示した。
容器には「Green Tea」と英語で書かれていた。一瞬迷ったがすぐに彼の厚意を受けることにした。「カムォン」とベトナム語で感謝の気持ちを伝えるとおじちゃんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
ベトナムのGreen Teaなるジュースは日本にはない味だったが、渇いたのどに染み込んでくるようで美味しかった。もらったジュース飲みながらスープのないフォーを食べていた。
先に食事を済ませたのはおじちゃんだった。彼は、私が食べる終わるのを待とうとしているのか、たばこを取り出して口に加えると火をつけた。そして、「お前も吸うか」といった風に箱を目の前に差し出して勧めてきた。
「ありがとう」と御礼を言った後に「でもタバコは吸わないんだよ」と私が笑いながら付け加えると、彼は「そうか」という風に微笑みを返してきた。
その後、おじちゃんは美味しそうにタバコを吸っていたが、私が食事を終えるのを見届けると例の崩れるような笑顔で「じゃあな」と言って、店先に停めてあったオンボロバイクにまたがり、夕暮れの街中を軽やかに走り去って行った。
彼が去った後、ひとり小さなイスに腰掛け、まだ残っていたジュースを飲みながらおじちゃんの顔を思い浮べていた。好運な巡り合わせによるたった1本のジュースだったが、単純な私はその1本でベトナムが好きになっていた。
ジュースを全て飲み終わると、列車の中で食べようと屋台のおばちゃんにバインミーをひとつ作ってもらう。そして彼女と通訳をしてくれたお姉さんに「カムォン」と言って店を後にすると近くにいたバイクタクシーを捕まえて、夕闇迫るなかサイゴン駅へ向かったのだった。
<【ベトナムこぼれ話】ホーチミンの路上にて 終わり>
参考WEBサイト
Text & Photo:sKenji
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