私が地元の風景をちょくちょく撮る理由

akaheru

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日々、地元の何気ない風景をちょくちょく撮影しています。

毎日通る道、目にする公園や木に畑。

いつも当たり前のようにそこに存在する風景は明日以降もきっと同じく存在しているような気がしますが、もちろんそれらは永遠にそこにあるものではなくて、常に変化していきます。

今しか取れない風景を残しておかなければ。

以下、私の地元の何気ない風景です。(自分用に残す意味合いが強い)

橋。我が子を抱っこして下の有料道路を走る車を何度も見続ける思い出ポイントです。
橋。我が子を抱っこして下の有料道路を走る車を何度も見続ける思い出ポイントです。
近所の畑。何を植えているか常にチェックしています(もらえはしない)
近所の畑。何を植えているか常にチェックしています(もらえはしない)
近所の階段。なぜかこの階段でだけばったり出くわす近所のおばさんと犬がいます。
近所の階段。なぜかこの階段でだけばったり出くわす近所のおばさんと犬がいます。
道路わきのプランター。ボランティアで手入れをしてくれている方々がいます。感謝感謝。
道路わきのプランター。ボランティアで手入れをしてくれている方々がいます。感謝感謝。
ちょっと(だいぶ)見にくいですが近所の公園の桜の木。娘が地面に落ちている花びらを踏まないように進むため、春先だけこの前を通るのにえらく時間がかかります。
ちょっと(だいぶ)見にくいですが近所の公園の桜の木。娘が地面に落ちている花びらを踏まないように進むため、春先だけこの前を通るのにえらく時間がかかります。

故郷の記憶を残したい

今住んでいる場所に越してきて数年経つのですが、この地に住むのは初めてではありません。現在の住居のすぐ近くに5歳くらいまで住んでいました。

数十年ぶりに帰ってきたという形になります。

母親の話によればさすがに数十年の月日でだいぶ変わったようですが、自分はほとんど記憶がありません。それでも当時の家の前にあった階段や、近所のファミリーレストランなど「そういえばあったかも!」と思えるポイントはいくつか残っていました。

もう少し思い出したいと思ってアルバムを引っ張り出して見てみたものの、私の顔がドアップで撮影されたものや(笑)、姉とのけんかのシーン等がほぼアルバムの大部分を占めていて、何気ない近所の風景はあまり残っておらず・・・。

その時、もう少しそういった写真が残っていたらなあと思ったのです。自分がかつて暮らしていた場所にはどんな風景があったのか。家族のみんなとどんな光景の中で生きていたのか。死んだ親父と散歩したのはどんな道だったのか。

思い出せなくても写真をもとにあれこれ想像できるかもしれない。そんなことを思ったのです。

年月が経つと、どうしても記憶は薄れてしまい忘れてしまいます。そんなとき写真は思い出す力を貸してくれます。

自分の子供達も日々成長を続けていく中、街も変化していきます。いずれこの地を離れることになるかもしれません。それでも今この場所で生きたことや過ごした時間がなくなることはなく彼らの人生の1ページとして存在し続けます。

地元の写真を残しておくことがいつか子供たちにとって、家族にとってプラスになると思うのです。彼らやその先の世代が自分のルーツを感じる手掛かりになるかもしれません。

また、いつか家族でこれらの写真を囲んで当時の友人たちのことを思い浮かべて懐かしむ時が来るかもしれません。一つ一つの風景には何かしらの物語が添えられるはずで、一つの写真をきっかけに無数の思い出話が誕生するかもしれません。

橋の写真を見たら、抱っこしている息子がいつまでも見ることをやめてくれず、腕が疲れてパンパンになった記憶を思い出したり、道路脇のプランターの写真では、同じマンションに住んでいてせっせと花の世話をしてくれたおばあちゃんのことを思い出したり。

そんな出会いや経験を踏んで今があることを再認識することで、自分の人生がより価値あるものに感じられるかもしれません。

そんなわけで、これからも少しずつ地元の写真を撮り続けようと思います。

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