【復興支援ツアー2018レポート】三陸鉄道沿線を巡り、現地の今にふれる旅 by akaheru

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毎年参加させていただいてる復興支援ツアー。

今年は岩手県の北部、三陸鉄道北リアス線沿線をめぐります。

以前のツアーで「三鉄」に乗ったことだけはあったのですが、今回はじっくり回って防災に関して学びを深めるとともに、沿線の魅力に触れてまいりました!

参加メンバー

自分 :不惑を過ぎて一層涙もろくなりました。
妻  :国内外問わず超旅行好き。熱い乗り鉄です。
息子 :5歳。熱い乗り鉄です。
娘  :3歳。最近はアナ雪よりもシンデレラが好き。

日程及び目的

○日程
2018年8月31日(金)~2018年9月3日(月)

〇目的
・語り部の方、現地の方に震災時の事、また東日本大震災から7年が経過した今について話を聞いて回りたい。
・三陸鉄道北リアス線沿いの魅力に触れ、旅行後に紹介したい。
・美味しいものを食べる。

1日目(2018年8月31日)

いよいよ1日目の出発です!

新横浜駅から東京経由で盛岡を目指します。

子供達が「あれに乗るのかな?」と話しています。ちなみにあの電車は反対側のホームに停車しています。
子供達が「あれに乗るのかな?」と話しています。ちなみにあの電車は反対側のホームに停車しています。

子供達もそれほど暴れることなく無事盛岡駅に到着です。

ここから、レンタカーを借りて三陸鉄道北リアス線の「田野畑駅」を目指します。

子供達にとっては初めての盛岡駅。去年訪れた熊本駅にも近いんだよ、と息子が妹に誤った情報を教えていました。
子供達にとっては初めての盛岡駅。去年訪れた熊本駅にも近いんだよ、と息子が妹に誤った情報を教えていました。

車を走らせること2時間。田野畑駅付近までやってきました。この日は14時から語り部ガイドをお願いしていたのですが、その前に腹ごしらえです。地元はもちろん、旅行者にも人気の「北川食堂」にお邪魔しました。

 北川食堂 | 田野畑村
www.vill.tanohata.iwate.jp  

残念ながら生うに丼の今季販売は終了してしまっていたのですが、かわりに頼んだ海鮮丼もボリューム満点!おいしかったけど、食べ過ぎで眠くなってしまわないか心配。

エネルギーチャージが終わったところで、ガイドさんとの待ち合わせ場所の田野畑駅に向かいます。迷うことなく5分ほどで到着です。

駅の愛称は「カンパネルラ」。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』の登場人物の名前に由来。息子は1歳の時に訪れたことがあるのですが、さすがに覚えていないようでした。
駅の愛称は「カンパネルラ」。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』の登場人物の名前に由来。息子は1歳の時に訪れたことがあるのですが、さすがに覚えていないようでした。

到着すると、ガイドをお願いしていた「NPO法人体験村・たのはたネットワーク」のガイドさんが笑顔で迎えてくれました。

語り部の方はまた別の方で、このガイドさんは大津波語り部後の「北山崎サッパ船アドベンチャーズ」までご案内をしてくれるとのことです。これは心強いです。

 大津波語り部&ガイド | 田野畑村
www.vill.tanohata.iwate.jp  

早速ガイドさんの案内で語り部の方との待ち合わせ場所へ移動。本日の我々が宿泊するホテル羅賀荘の横でお話を始めていただきました。

ガイドの方は元遠洋漁業の漁師さんで、すぐそこに見える羅賀層でも働いていたことがあるという方でした。

震災時には大きな被害を受けたホテル羅賀荘。リニューアル後、営業を再開しています。
震災時には大きな被害を受けたホテル羅賀荘。リニューアル後、営業を再開しています。

この羅賀荘のある羅賀集落には、震災時63世帯180名の方が住まれていたのですが、震災で7名が犠牲になってしまったとのことです。(引き波でさらわれてしまったため、犠牲になった方の半数以上が見つかっていないとのことです)

そのガイドさんは震災時高台に避難をして海をみていて、津波も目にしています。

第1波は海がゆるやかに膨れ上がったもののそれほど威力はなく、透き通ったきれいな色をしていたとのことです。

そしてその後波が引いていくのですが、目の前の湾から水が一気になくなったといいます。湾から1キロ離れたところに弁天島という島があるのですが、そこまで海の底が見えたとのことです。

遠くに見える、中央部分に浮かぶ島が弁天島です。
遠くに見える、中央部分に浮かぶ島が弁天島です。

その後発生した第二波の津波が非常に大きなものでした。

ここで発生した津波が田野畑で最も高さがあり、羅賀荘も3階部分まで浸水したと言います。

ただ、この地は過去にも津波で甚大な被害を受けており、そういった教訓から建物も津波を想定した特殊な作りにしていたとのことです。

岩盤に鉄骨を埋め込んで建物を固定し、逆にガラスは津波が建物を通り過ぎるように割れやすい作りをしていました。そのため、建物自体は倒れることなく無事だったということです。

ガイドさんのお話によると、昭和8年の地震で羅賀集落は壊滅的な被害を受け、生き残った人たちは高台へ家を移転したとのことです。それから時が過ぎていく中、少しずつ海沿いに家を建てる人が出てきて、徐々に海の方へ住宅地が近づいていったと言います。そのため、いわゆる昔からある「本家」の家は無事なところが多く、「分家」の比較的若い人達の被害が大きかったとのことです。震災の教訓がここでは生かされておらず、ガイドさんはまだまだ防災の取り組みが足りなかったと悔やんでいました。

次に話してくれたのが避難所での話でした。

避難所の田野畑中学ではかつて学生さんが寄宿舎生活をしていたこともあり寝具がたくさん残っていたため、それらを有効活用したとのことです。

更にそこに集まった人たちでストーブなど使えるものを出し合ってみんなで協力して寒さをしのいだと振り返っていました。

また、20~30人でグループを作り、グループ毎に避難所内の作業を分担して行うという取り組みも非常に成功をしたということです。誰からも文句がなくみんな積極的に助け合ったということで、避難所の成功例として当時はメディアにも取り上げられたと言います。

そんな中で特に苦労したのが「トイレ」。400人の避難者に対してトイレが男女とも3つほどしかなく、やりくりが大変だったようです。

お話を聞いていて何度も耳にしたのが「うちのところは恵まれていた」という言葉です。大変な苦労をされているはずなのに、うちなんかまだまだというお話。語り部の方のお話は他でも何度か聞いたことがありますが、こういった言葉は多くの方から聞かれます。

ただ、震災後は若い人が減り、漁師も減りやはり寂しいということです。とても美しい海の広がるこの羅賀地区。再び盛り上がってほしいと願うばかりです。

明治の津波で流されてきた津波石。海抜約40mの場所に流されたこの石の重さは100tともいわれています。この石がある場所には復興の象徴となる公園が作られるとのことなので必ずまた訪れたいと思います。
明治の津波で流されてきた津波石。海抜約40mの場所に流されたこの石の重さは100tともいわれています。この石がある場所には復興の象徴となる公園が作られるとのことなので必ずまた訪れたいと思います。
時間ギリギリまで丁寧に話をしてくれたガイドさん。ありがとうございました。
時間ギリギリまで丁寧に話をしてくれたガイドさん。ありがとうございました。

語り部さんと別れた後、ガイドの方に誘導していただきサッパ船乗り場へ。ここからサッパ船に乗って海へ出ます。

断崖絶壁の自然景勝地として有名な「北山崎」を、海の方から見るというもの。子供たちが楽しみにしていたイベントの一つです。

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