地元で桜並木として知られる川原で、ひとりの乱暴者が桜の枝を手斧で砕いている。これでもかこれでもかと、男は束にして積み上げられた桜の太い枝、細い枝を砕きながら、何やらしきりにつぶやいている。
久しぶりの晴天で、あらかたの雪はとけ、茶色い地面からは淡い緑色の芽吹きも見えるが、何という草なのかまではわからない。ただモヤシが少しばかり色づいたといったほどの薄緑。ひょろひょろの新芽の間には、まだところどころ雪が残っている。
日が傾きはじめた川原に吹きわたる風は冷たい。それでも男は桜の枝を砕きながら汗をかいている。ぶつぶつつぶやく声とともに手斧を振り下ろすたびに、黄ばみはじめた西日に光る汗が飛ぶ。
どうして男は一心に桜の枝を砕くのか。男はいったい何と口の中でつぶやいているのか。
その男のことを私はよく知っている。力自慢である。たしかに乱暴者として知られてきた。だが、彼を慕う人も少なくない。震災の後はとくにそうだ。私が彼に抱いている感情も、尊敬といっていいものだ。
手斧を振り下ろす彼の左側に身を近づけて、その言葉を聞き取ろうとしてみた。彼は私が近づいても気づかない。それだけ一心に手斧を振るっているのだろう。
振り上げた手斧が自分に当たりはしないか心配になるくらい近づいてみたが、それでもよく聞き取れない。「えい! えい!」とか「よいしょ! よいしょ!」といった単純なかけ声ではないらしい。「これでもか!」「こん畜生!」といった恨みの言葉でないのも確かだ。力自慢で暴れん坊の男が渾身の力を込めて振り下ろすたび、口から唾とも涎ともつかない液体を垂らしながら、つぶやいている言葉は、もっと短い。
「ない!」「ない!」
ようやく聞き取れた。「どこだ!」「どこにあるんだ!」という言葉も交じる。
桜の木には、枝を切っていい時期というものがあるらしい。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉があるように、普段は決して切ってはならないが、枝振りを整えるためには剪定もしなければならない。その限られた時期というのが今なのだという。春になって根が水を盛んに吸い上げるようになってしまった後では木が傷む。病気になってしまうこともある。だから、まだ寒いうちに枝を落とさなければならない。
その時期に合わせて切り落とされた桜の太い枝、細い枝が束ねて積み重ねられたところで、男は手斧を振るっているのである。
理由は聞かなくてもわかる。男は切り落とされた桜の枝の中に、春咲く桜の花を探しているに違いない。
例年になく寒さが厳しい今年の冬。雪かきしてもすぐにまた積もる雪。それより何より、もうすぐ津波から7年になるのに暮らし向きは上向かない。津波から7年も経てば、「どこのじいさんが亡くなった」「あそこのばあさんが今朝亡くなったそうだ」といった話も増える。生徒たちが卒業していく春はめでたいが、高校の卒業生で地元に残る子は少ない。そんな時だから、彼は一足先に「春の証拠」を見つけ出して、みんなに見せてやりたいと、その一心で桜の枝を砕いていたのだ。
「ない! ない!」「どこだ! どこだ!」と。
そんなお話なんてフィクションだろうと片付けてしまうのは簡単だ。そんなおバカさんなんているはずないと。しかし、私の回りには、目に見えぬ手斧で目に見えぬ桜の枝を砕き続ける人がいる。たくさんいる。
さくら木をくだきてみれば花もなし
花をば春のうちにもちけり
二人比丘尼
この歌を知らなくても、その意味するところは知っているのだ。知っていてもなお、目に見えぬ手斧で春を探そうとする。探し出してみんなに見せたいと希う。そんな人がいる。たくさんいる。
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