アメリカにこてんぱんにやられて敗戦して、占領されて、平和憲法を持たされることになって。日本は敗戦とともに軍国主義とは決別し、戦後69年ずっと平和国家としての道を歩いてきた——。そのように思うのが錯覚だと教えてくれる文章を引用します。
サンフランシスコ講和条約の前後、日本は再軍備と兵器産業復活の大転換を行っていたかもしれない。しかもそれは、日経連など産業界が求め、法要綱が作成される政府方針にまでになっていたという話には驚きを禁じ得ません。
講和と兵器生産
講和が発効すると、その六カ月後にポツダム政令の兵器生産禁止項目が無効になる。時はまだ朝鮮戦争が続行中である。占領軍からは講和発効以前の五十二年三月に兵器生産禁止令の緩和についての覚え書きを示され、さらに四月には占領軍調達の兵器・航空機生産の許可権限を日本政府に委譲する旨、通産省に連絡があった。通産省は戦時中の軍需省の後がまだったからである。
(中略)
朝鮮特需で味をしめた日本の産業界は、講和成立後もその需要を欲した。朝鮮特需は戦争による急な一時的需要に応じるものであったが、これからは戦争の帰趨と関係なく、冷戦が続く限り、アメリカから新特需と称して、恒久的な軍需があるから、それを受けようという機運が高まった。さらに兵器は東南アジア諸国にも売れる可能性がある。そこで経団連では八月に「防衛生産委員会」を組織して、その研究に当たった。再軍備の可否がしきりに論壇で闘わされていた頃のことである。
通産省も兵器生産路線を推進しようとし、五十二年七月には輸出兵器の生産許可方針を決定して、九月には兵器産業を重要産業に指定した。一〇月に「兵器生産法要綱」を決定し、再軍備に対応した軍需産業、航空機産業を復活することが決定された。かつて来た道への復帰の可能性が十分ありえたのである。兵器産業はこれまで取り締まりの対象であったのが、保護推進の対象に変わった。
「科学技術の戦後史」中山茂 1995年 岩波新書395
ここまで具体的に進んだ話がなぜ経ち消えになったのか。同書が続ける内容はまたも意外な事実でした。
しかし結局大蔵省の段階でストップがかかった。兵器生産は戦況によって好不況があり、安定しないから、リスクを常にともなうものであり、そうしたギャンブル的な業種は国費をもって支えられない、というのがその理由である。
「科学技術の戦後史」中山茂 1995年 岩波新書395
通産省は輸出産業の育成で産業の復興を目指していたのだから、軍備そのものが目的ではなかった。そのため民生用生産路線を採ることになったと、著者である中山茂氏は説明します。
自衛隊は有しているとはいえ、おおっぴらに再軍備をアピールしたり、武器輸出を推進したりすることなく戦後半世紀以上を過ごしてきたのは、日本という国の平和への意思という訳ではなく、ギャンブル的な業種に支援はできないという財政的な理由によるものだったというのです。
軍事国家志向に対して働くブレーキや歯止めは、かくも脆くはかないものだったということを、私たちはいま再確認した方がいいでしょう。日本が「かつて来た道」をもう一度歩き出さないようにできるのは、私たち1人ひとりの声を束ねていくより他にないということを、60数年前の出来事が明らかにしています。
文●井上良太
最終更新:
iRyota25
2015年の時代の空気を踏まえ、この記事をもとに再構成したものをアップしました。
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