この青い空から(2つの書評的なもの)

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東京の私立大学を受けてきた受験生と話しをした。どうだった? と聞くと、まだ塾の情報サイトから世界史の正解しか出てないけど、70点はとれたとの返事。まぁまぁじゃんと返したら、正答をとれなかった問題のことを気にしている様子だった。

プトレマイオス朝の誰それで間違えたとか、ゲルマン民族の分派について勘違いしたとかといった話しはスルーしつつ、三角貿易とかの話しは出たの? と聞いてみると、向こうは向こうでその話しはスルーで、ナセルとかレーガンとかって名前が飛び出してくる。

「三角貿易」と聞いてみたのは、受験に赴く前に彼と話したとき、たまたま『この本』を読んでいたからだ。

『空から降ってきた男』小倉孝保著 新潮社(写真はイメージ)
『空から降ってきた男』小倉孝保著 新潮社(写真はイメージ)

以前、やはり世界史の話しになったとき、三角貿易がらみの話しはきっと出題されるだろう、うんそうだろうな、といったやり取りをしたことがあった。

こちらから三角貿易というキーワードを振り向けたとき、彼は「西の? 東の?」と聞いて来た。受験生にとっては基本のキの字なのだろう。西の、とは奴隷貿易、東のとはアヘン貿易のこと。

「西の」と即答すると、「あぁ、あっちの方ね。ひでえ話しだよね。そりゃ、アヘン貿易だってひどいけど」

そう言いながら、彼は高校で学んだ世界史をベースに、ヨーポッパ世界にによるアフリカからの収奪について説明した。イギリスなどがアフリカに武器や生活物資を輸出する。武器を手にしたアフリカ沿岸部の一部の人たちが内陸部で奴隷狩りをする。強制的に集められたアフリカ人が「商品=奴隷」としてアメリカ大陸に輸出される。奴隷としてアメリカに渡った人たちは、綿花や砂糖といった商品作物の栽培に従事させられる。アメリカで生産された商品作物はイギリスなどヨーロッパに輸出される。この貿易によってヨーロッパに富が蓄積されるこになった——。ほぼ模範解答だろう。

しかし、それだけでは正答ではない。

空から降ってきた男

ロンドン、ヒースロー空港の着陸進入路上空のある住宅街で死亡したひとりのアフリカ男性。ロンドンオリンピックが開催されていたちょうどそのころ、アフリカで決意を固めた一人の男性が、どうしてロンドンの空の下に墜落しすることになったのか、毎日新聞社の記者がロンドン、ジュネーブ、そしてケープタウン、アンゴラ、モザンビーク。アフリカ南部各地にルポして、彼の死の理由を探ったノンフィクション作品が『空から降ってきた男』だ。

数ページ立ち読みすると止まらなくなる。そう言えばロンドンオリンピックが閉会した頃、そんな話しをニュースで読んだようななかったような、と遠い記憶がよみがえりながらも、雲のはるか彼方のぼやけた中、物語を読み進めるうちに像が際立ってゆく。「fasten your seat belt」着陸態勢に入った旅客機から見る景色がよみがえる。はるか下方の家々がぐんぐん大きくなっていくあの時間。座席にいても緊張するあの時間。軽い恐怖。しかし彼が感じたであろうものは死に直結するものだった。どうして彼は…

何より、ロンドンの高い空から墜ちていった彼が見たであろうイメージが消えない。さまざまな意味で繰り返し目の当たりにされる。秀作である。

アフリカとヨーロッパ。本来なら、2月14日にアップしようと目論んでいたのだが、やめた。チョコレート騒ぎがおさまった後にこそ、読んでほしいと思ったからだ。(チョコレートの原料であるカカオ豆の原産地は中南米で、今日では世界中で栽培されているが、その主要な産地がアフリカ各国であることは言うまでもない。高級チョコレートで知られるベルギーもまた、アフリカの植民地の宗主国だった。そんな現実的な話しは、バレンタインデー後というよりも、あるいは世界中が注目するオリンピックの熱狂の後でもよかったのかもしれない)

アフリカへのまなざし

しかし、読後には物足りなさが残る。ひとりの男が空から降ってきた理由をさぐる記者のペンは、現代のアフリカにある不条理を確かに捉えていると思う。同じアフリカ人同士の間にある想像を絶する貧富の差。たとえ支配階級であったとしても、それがヨーロッパ人であったとしても、金がなければ生存の危機に直面するという事実を通して描かれる、残忍なまでの市場経済のありよう。行政機関の腐敗。極め付きは、生まれ育った地でパスポートを得ることすらできず、そのために空から降りるほかなかったひとりの男の現実。

それでも物足りなさを感じてしまうのは、三角貿易によって、またその後の植民地支配によって確立されたヨーロッパ世界と、世界のその他の地域との間の断層を描き切れていないように感じるからに他ならない。

哲学者ヘーゲルは言った。「黒人(アフリカ人)はまったく野蛮で奔放な人間です」と。恥ずかしいことに、18世紀から19世紀をまたぐ哲学の巨人がこんなことを言っていたと知ったのは、つい最近、松田素二の著作を読んでのことだった。

いかに哲学者とは言え、何もないところから説を引っ張り出すことはできない。ヘーゲルとて同じだ。その時代に生きていた人たちのさまざまな言説や、時代精神といったものを総体として見極めた上で、ここぞというところに一太刀喰らわした言説が「アフリカ人は野蛮人」だったに相違ない。

つまりは、ヨーロッパ人のほぼ総体としての認識を固着させたのが、かの哲学者の言葉だったと言える。ヘーゲルの史観を下敷きにしたマルクス・レーニン主義が、はたしてこの偏見を免れていたことか。

同じ松田の著作から教えられたことだが、アフリカを中心とした奴隷貿易によってヨーロッパが獲得した砂糖は、同じく三角貿易の過程で富を蓄積し、台頭していった市民課級の嗜み、たとえばコーヒー、紅茶、ホットチョコレートなどに不可欠のものだった。

チョコレートだってアフリカの犠牲の上につくられた

「自由」「平等」「民主主義」といった美しいスローガンは、アフリカの人たちを足踏みにしたその上で作り上げられたものなのだ。そして、この時代の最先端にあった人たち(つまり市民革命の原動力だった、台頭した市民階級)が、コーヒーや紅茶(東インド会社等による植民地支配によってもたらされた、当時としては異国情緒を醸したであろう贅沢品、もちろん砂糖を入れて)を愉しみながら、人類の普遍的な理想を語り、王政を批判し、時には四つ角にバリケードを築き、ある時は些細な意見の喰い違いから味方同士でさえも銃火を交えたいたのだ。そんな彼らは、彼らの「革命」がアフリカの人たちの強要的犠牲の上に成っていたことをおそらくは知らない。だからこそ、ヨーロッパ世界は革命後も、富を蓄積するシステムとしての植民地支配をアフリカ、アメリカ、アジアへと広げていった。

自由・平等・博愛といった言葉に、何となくあやうさや危なさを思ってしまうのは、こんな歴史の事実を私たちが無意識のうちにも覚えているからなのかもしれない。たとえ松田の著作に触れなくとも。

高校の授業ならば、少しばかり気の利いた歴史の先生はこう教えてくれる。三角貿易によって蓄積された「富」によって、それまで世界史の一辺境に過ぎなかったヨーロッパが世界を支配するに至った。その手段が植民地であり、それは産業革命と機を一にするものだったと。

しかし、その「富」が意味するものの一面が、コーヒーや紅茶を飲む習慣(砂糖を添えて)、チョコレートを食べる習慣、そして、それが現在にまでつながっていることなどは、なかなか教えてくれない。

砂糖は、アフリカから強制的に連れ去られた、数千万人の人たち(商品である奴隷として輸出先に届けられるまでに、数倍の犠牲者があったという)の犠牲の上で地球規模での嗜好品になった。その貿易による富の蓄積があってこそはじめて植民地支配が進み、お茶やコーヒー、チョコレートの原料となるカカオなどの商品作物の栽培が進められた。もちろん、ヨーロッパによる植民地ののプランテーションで。

蓄積された富とは、宝箱とか千両箱でイメージされるようなものではない。それをあからさまに示すのははむしろ、ライフルであり大砲、軍艦、つまり武力である。

資本主義は国家と結びついた。というより、三角貿易と産業革命を経て形づくられていった資本主義が国家というものを成形していったというべきかもしれない。第二次大戦時に英国を首相として率いたチャーチルが、植民地政策に関しては最後の最後まで米大統領ローズヴェルトと対立してことは、英国ひいてはヨーロッパ世界、つまり近代国家と呼ばれるものが植民地によって成り立っていたことを証左する。

そして、その当時、つまり近代に芽生え育まれてきた文化もまた同様だ。

バッハやベートーベンがコーヒー愛好家だったことはよく知られているが、音楽家のみならず小説家、画家たちもコーヒーや紅茶、ココア(もちろん砂糖入り)を愛好した。そもそもサロンという場自体、お茶をしながら芸術を愛でる愛好グループであったし、主催するパトロンたちが没落した後も、小説家や音楽家はカフェーを社交の場兼仕事場として活用してきた。列挙するまでもないだろう。近代芸術は、音楽も美術も文学も、ひとしく「砂糖」と「コーヒー・紅茶・カカオ」などとともにあったのだ。

そんなことを思いながら聞くと、同じ指揮者、同じ楽団による、たとえばベートーベンの演奏ですら変わって聞こえてくる。作曲はアフリカをどう考えていたのだろうか。アジアに対する植民地支配をどう思っていたのだろうか。

そして、日本だって

これは他人事ではない。たしかにたとえば和菓子だって、南蛮貿易で砂糖が入ってくることで花開いた文化であるし、そもそも千利休の頃には茶菓として出されるのは干し柿やクルミといった自然のものでしかなかった。

他人事ではないというのは、砂糖だけではないのは自明だ。ヨーロッパ諸国による植民地化の手が伸びる中、辛くも国内統一を果たした極東の島国は、自らに迫り来た欧米の国々を「列強」と呼び、それに比肩することこそが植民地化を逃れる道であると決意した。

思い起こしてみるがいい。江戸時代が始まる前、戦国時代にヨーロッパから来訪する人たちは「南蛮人」と呼ばれていた。この呼び名は、当時のそして有史以来変わることのなく世界的な一帝国であった中国が用いてきた呼称だ。(参考までに、江戸時代を通して朝鮮使節団は国賓扱いで迎えられている)

南蛮人と呼ばれたポルトガル人、スペイン人、イギリス人、オランダ人たちは、キリスト教とともに鉄砲、築城術、洋菓子などなど多くの品や技術を伝えたが、その当時にはこの国を征服したり、植民地にするまでの力は持っていなかった(その意図はあったとしても)。

ところが250年後、しきりに到来するようになった欧米の軍艦は、その意図をより明確にしていた(その頃すでに中国は列強によって蚕食されつつあった)。

この250年ほどの間に、世界の辺境であったヨーロッパは、世界のすべてを支配しかねないほどの力と意思を持つようになっていたのだ。その原動力となったのは? アフリカに対する搾取と、それを正当化する思想と、それらによって成り立った近代国家、そしてアフリカ搾取から学習して作れ上げられていった植民地経済というものだった。

明治維新後の日本は、大小300藩とも言われる地方ごとに委ねられていた主権を糾合し「国家」というものを急ごしらえに整えようとした。

隙を見せれば侵略して来かねない列強との彼我の力量の差は歴然としていたから、時を争うかの如くに植民地漁りに乗り出した。西郷隆盛らの征韓論が、欧米視察団に参加した主流派に退けられたのは一時的なことでしかない。その後、明治政府は朝鮮半島や大陸に植民地を求めて進出する。

日清戦争で台湾を支配すると、この国はその地にたくさんの製糖工場を建設した。輸出産品として期待された台湾製の砂糖は、日本国内での砂糖消費量も急増させ、その水準は欧米列強にも近づいた。

銀座にカフェーができる。洋菓子店が全国に広がってく。料理の調味料として砂糖が広まっていく。地方で麦茶に砂糖を入れるといった文化も、この頃からはじまったと考えていいだろう。

明治維新からおよそ75年後、日本は自ら範としてきた「列強」に対して戦端を開くことになるが、その時点での力量差は、鉄の生産量でも鉱工業生産全体でみてもイギリスやドイツの3分の1、アメリカの10分の1に過ぎないというものだった。

しかし、フランスやイタリアとは鉱工業生産ではほぼ同列。これをどう見るか。

日本という国は、列強の脅威に対抗するため足早に植民地支配経済を伸張させたが、イギリスやアメリカに比すればはるかに及ばなかった。だからアジア太平洋戦争には敗北したのだ。そんな見方もできるかもしれない。しかし、この国はそもそも明治の始まりのところで何か大切なものを見誤ったのではないか。あるいは、明治維新の頃であれば仕方がなかったかもしれない。しかしその途を、修正する機会があったにもかかわらず、実質的には変わらぬ途を進んでいるのではないか。

敗戦後、日本が目指した復興の姿は、戦前のGDPを回復することであり、アメリカ並みの消費文化を自分のものにすることだった。

たしかにアフリカは地理的には遠い。しかし、今あるこの国は、アフリアを収奪した国家群に倣って国家というものを再構築し、富(その意味も前述したものから本質的には変わっていない)を蓄積し、砂糖(象徴的な意味で)を享受し続けていることは間違いない。2月14日の狂騒を見てもそのことは確かだと思うのだが。

参考書籍
『空から降ってきた男:アフリカ「奴隷社会」の悲劇』
小倉孝保著 新潮社2016.05.18
『興亡の世界史19 「人類はどこへ行くのか」第5章 「アフリカ」から何がみえるか』
松田素二 講談社 2009.4.24

とはいえ、ここまで書いてみると、『空から降ってきて男』の読後感がまた少し違ってくる。「アフリカへの眼差し」という問題は、あくまでもアフリカ(あるいはアフリカ人)を対象として捉えた上でのことだ。

作品の最終盤で記者が描いた飛行機からの景色。そのイメージは心象に深く刻み込まれる。今を生きている人々が歴史をつくっているのはたしかだが、生きている当人に歴史を俯瞰することは難しいという事実を、空に舞った彼が最後に見たであろう光景が物語っているようにも感じた。

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