[10月3日という日]東西ドイツが再統一された日

Rinoue125R

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1990年10月3日 東西ドイツ再統一

ドイツ大使館・ドイツ総領事館の名で公開されている「平和革命から再統一へ」を読むと、1980年代からの東ドイツの状況や歴史的な足跡だけではなく、統一へ向かう「両国民」の躍動するかのような動きが伝わってきます。

1989年11月9日木曜日の夜のニュース番組に端を発した「ベルリンの壁崩壊」。解放された国境検問所を通り抜けた人々は笑顔で、そして幸せのあまり涙を流しながら抱き合ったそうです。ブランデンブルク門のベルリンの壁の上で、東西ベルリン市民が出会う様子は、繰り返し繰り返し世界中のテレビのブラウン管に映し出されました。

しかしそれば、長く閉ざされてきた東西の行き来が可能になっただけのこと。東西ドイツ国民は、壁崩壊という劇的な出来事から、着実かつスピーディーに再統一への歩みを進めていきました。政治的には国家保安省の解体、東ドイツで独立体制を打破する人民議会選挙、第二次世界大戦の戦勝国である4か国との外交交渉、そして1000ページを超える統一条約の作成と協議と締結、経済の同化、通貨統一。統一への動きは民間でも加速していました。「平和革命から再統一へ」を引用します。

探索と支援の年

1990 年春、東独市民の85 パーセントが再統一に賛成していた。西独においては1 月時点で70 パーセントであった。東でも西でも、人々はもう片方のドイツを探索に出かけた。再会への好奇心も、その喜びも大きかった。壁崩壊後、東独市民が西側を訪れやすくするために、100 マルクの歓迎金が支払われた。しかし連帯をあらわしていたのはそれだけではない。連邦州も自治体も、政党も団体も連盟も、そして一人々々の人たちも、互いに協力を惜しまなかった。教会は全ドイツで連帯し、民主的改革や経済復興を資金・人員・知識の面で支援した。「態度のでかい西独人」「嘆いてばかりの東独人」などという言葉はまだ生まれていなかった。警告や疑念の声も確かにあったが、多くの人々は「薔薇色の光景」がすぐにも見られると期待していた。多くの東独市民が長年の夢を実現し、シャンゼリゼやマジョルカ島で東独ザクセン訛りのドイツ語が聞かれるようになった。東独市民も車を買い求めて、西ドイツの中古車市場は売り切れになった。一時の高揚感の中では、キュウリやマスタードや小麦ですら、地元の産物よりも西独産の方がおいしく感じられた。やがて旧東独が懐かしく感じられることがあるなどとは、この時点では考えもつかなかったのである。

平和革命から再統一へ | ドイツ大使館 ドイツ総領事館

1990年10月3日0時。国歌の響く中、ベルリンの旧帝国議会議事堂に、「ドイツの旗」が、今や統一ドイツの旗としてかかげられた――。

再統一について高らかに謳いあげている「平和革命から再統一へ」には、上記のような記述もあるのです。統一に向けての躍動感を最も感じさせる部分であると同時に、その文章は再統一によって現出した陰画も描き出しています。

およそ半世紀にも及ぶ分断の歴史を断ち切り、再び統一を成し遂げたドイツ国民に敬意を表するとともに、私たちは眼鏡の汚れを拭き取って、再統一の現状に目を向けていく必要があるかもしれません。

 平和革命から再統一へ | ドイツ大使館 ドイツ総領事館
www.japan.diplo.de  
 【参考ページ】ドイツ再統一は本当に慶事だったのか
potaru.com

歴史の中の10月3日

▼1935年 第二次エチオピア戦争

19世紀末の第一次エチオピア戦争に敗北した後、「古代ローマ帝国の復活」という神話的スローガンを掲げたムッソリーニ政権が登場。(ドイツの第三帝国や日本の八紘一宇も同様に、神話や歴史に擬することで戦争の正当性を国民に訴えたとされる)

かつて地中海やアフリカ大陸に覇を為したローマ帝国を引き合いに、植民地政策を進めていく。同じくアフリカに権益を持っていたイギリス・フランスとの駆け引きの中、強硬な姿勢を取りつづけてイタリアは、英仏が勧める委託統治のプランを蹴り、軍事支配に向けてエチオピア帝国に戦いを仕掛ける。装備に大きな差のあるイタリアはエチオピアを屈し、軍事的勝利を収めるが、英仏との関係は悪化する。にもかかわらず、ヨーロッパにおけるナチスドイツの勢力拡大を懸念した英首相チェンバレンは、イギリスを味方に付けるためイタリアによるエチオピア支配を認める。しかし、イタリアはドイツと組んで第二次世界大戦で英仏と対峙。イギリスはエチオピアや隣接するソマリランドなどを奪取する。

植民地主義の何たるかを物語る戦争だといえそうだ。

▼1942年 世界最初の宇宙ロケットV2号(報復兵器2号)の打ち上げ

第二次世界大戦後、サターンロケットやアポロ計画などでアメリカの宇宙開発をリードしたヴェルナー・フォン・ブラウンによって開発されたロケット兵器V2号(Vは「Vergeltungswaffe」で報復兵器の意味。宣伝相ゲッペルスによって改名されたという)が人類史上初めて宇宙空間に到達。この成果から、V2は人類初の弾道ミサイルとしてイギリス、ベルギー、フランスなどへ合計3,000発以上が発射された。

▼1983年 三宅島噴火

三宅島全景 南東側上空から 2010年1月29日 気象庁撮影

三宅島全景 南東側上空から 2010年1月29日 気象庁撮影

www.data.jma.go.jp

マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火による中規模噴火。10月3日15:23頃、南西山腹に生じた割れ目から噴火。火口からは高さ100メートルに及ぶ溶岩噴泉が噴き上がった。溢れ出た溶岩は斜面を3方向に流れ、一部は海に到達した。島の南部新澪池付近とその南の新鼻の海岸付近で、マグマ水蒸気爆発が発生。大量の噴石を周辺に飛ばし、火山灰を積もらせた。

住宅の埋没・焼失約400棟、幸いにも人的被害はなかった。

前回1962年の噴火からは21年が経過していた。続く2000年の噴火までは17年。

 【参考】気象庁|三宅島 有史以降の火山活動
www.data.jma.go.jp  

▼1990年 東西ドイツ再統一

前年のベルリンの壁崩壊から再統一の機運が急速に高まり、3月には東ドイツで自由選挙が実施される。壁崩壊から1年を経ないうちに、45年に渡って切り離されてきた両国が再びひとつとなる。

この日が誕生日

◆1804年 タウンゼント・ハリス
アメリカの外交官。初代駐日領事として来日、伊豆の下田に上陸する。井伊直弼の大老就任の後、日米修好通商条約を締結。手塚治虫の「陽だまりの樹」にもその姿が描かれた。

◆1867年 ピエール・ボナール
19世紀後半から20世紀初頭に活躍したフランスの画家。後期印象派の次の時代を予言するもの「ナビ派」の代表的なひとりとされる。衝立で2つの裸体を隔てる斬新な構図による「男と女」(オルセー美術館)、「逆光の裸婦」(ベルギー王立美術館)、「花咲く杏の木」(個人蔵)など。

◆1873年 津田左右吉
日本の歴史学者。古事記、日本書紀の研究で知られる。

◆1899年 山口華楊
京都生まれの日本画家。数多く残した動物画が有名。

◆1953年 永射保
鹿児島県出身の下プロ野球選手。左投げ左打ち。指宿商業から広島カープ入り。投球フォームを左のアンダースローに改造。ライオンズに移籍後、さらに、プレートの外側から踏み出す足をインステップする独特の投法を開拓。左バッターにとっては背中の後ろから球が投げ込まれるような感覚で、左のワンポイント、中継ぎとしてリーグ優勝、日本一に貢献した。

この日亡くなった人たち

・1226年 アッシジのフランチェスコ
フランシスコ会の創始者として知られるカトリックの修道士。イタリア、ウンブリア地方のアッシジに裕福な商家の子として生まるが、出家した後は病人の世話と托鉢、放浪の中で修業したと伝えられる。

・1896年 ウィリアム・モリス
イギリスの美術運動家、デザイナー、詩人。産業革命が進み無機質な製品が大量生産されるようになる中、芸術の復活と職人の復権を進める「アーツ・アンド・クラフツ運動」をモリス商会という企業活動を通じて実践した。ロセッティの「プロセルピナ」などのモデルとなったジェーン・モリスは妻。

・1962年 飯田蛇笏
山梨県出身の俳人。自然に根差した俳句を多く作った。
芋の露連山影を正しうす
をりとりてはらりとおもきすすきかな

・1983年 花登筺
大津市出身の脚本家、小説家。テレビ草創期から脚本家として活躍し、「どてらい男」「おからの華」など膨大な作品を残した。新幹線でも原稿に向かった話は有名で、その姿は週刊誌のグラビアなどでも紹介された。

・1999年 盛田昭夫
ソニー創業者の1人。太平洋戦争中に海軍技術中尉として井深大と出会う。戦後東京通信工業(後のソニー)を設立し、成長を支えた。

・2009年 中川昭一
1953年生まれの政治家、元・財務大臣。自民党の大物政治家中川一郎の長男。財務大臣に就任していた頃「ろれつが回らない」問題で糾弾され大臣辞職、次いで総選挙でも落選した後の2009年のこの日、自宅の寝室で急死した。

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