大量殺戮兵器としての機関銃

iRyota25

公開:

5 なるほど
3,550 VIEW
0 コメント

核なき世界を標榜するオバマ大統領は、広島平和記念公園でのスピーチで、核廃絶のみならず人類自体のマインドセットを変える必要があると訴えた。ありきたりなライフルや爆発物でさえ、恐ろしい規模の暴力を引き起こすのだと。

この発言を取り上げて、核廃絶への具体的な行動の必要性を理想論によってぼかすものだという意見もある。政治家である以上、削減数や期日といった目標を示すべきだという意見も聞く。

とはいえオバマ大統領のスピーチが人類に思い出させたことの意味は大きいと思う。私たちに思い出させたこととは、ヒロシマとナガサキで原爆が使われて以来、戦争で原水爆が使用されたことはないにも関わらず、世界に平和は訪れていないということだ。

核兵器はなくさなければならない。一刻も早く廃絶すべきだ。しかし、核兵器がなくなればそれで世界平和が実現されると考えるのはあまりに楽観に過ぎるのではないか。

オバマ大統領は、人間社会の進展を伴わない科学技術の発展についての危惧についても語った。その明確な例証のひとつに機関銃をあげることができる。核兵器のように高度かつ大規模な科学技術が傾注される兵器ではなく、世界中の紛争地域で最も一般的な武器として使われている機関銃こそ、20世紀を戦争の時代にしてしまった元凶のひとつだった。

陸上自衛隊10型戦車の砲塔上に装備されたブローニングM2マシンガン。1発当たっただけで人体が裂けてしまうほどの威力のある弾丸を、最大で1分間当たり1,200発発射できる
陸上自衛隊10型戦車の砲塔上に装備されたブローニングM2マシンガン。1発当たっただけで人体が裂けてしまうほどの威力のある弾丸を、最大で1分間当たり1,200発発射できる

初めて機関銃が本格使用された日露戦争

機関銃が初めて国家間の戦争に本格的に使われたのは日露戦争での陸戦、有名な旅順要塞の攻略戦でのことだった。ロシア太平洋艦隊が本拠地とする旅順港を見下ろす高台、203高地に建設された要塞に対して、乃木希典将軍が指揮する日本陸軍第三軍が突撃攻撃を繰り返し多くの死傷者を出した。

要塞に立てこもるロシア軍はアメリカ人ハイラム・マキシムが設計したマキシム機関銃を、攻める日本軍はフランス製のオチキス機関銃を多用した。当初、銃剣を装着した小銃(ライフル)にを手にした歩兵たちによる突撃戦を挑んだ日本軍は、堅固な要塞に据え付けられた重機関銃になぎ倒され、多大な犠牲を被った。後に、敵陣近くまで塹壕を掘って攻撃する戦法に変更し、要塞の攻略に成功したものの、203高地を巡る攻防で日本軍は16,000人の戦死者と44,000人の負傷者を出したとされる。両軍合わせての死傷者は9万人に上った。

日露戦争では欧米各国の武官が戦闘を戦場の間近で観戦していた。旅順の戦いを目の当たりにした軍人たちは、機関銃で守られた陣地に対しては、歩兵による突撃攻撃が無効であること、そして機関銃は非常に重たいため、攻撃側での運用が困難であるという戦訓を母国に届けたという。

自動発射銃器の誕生

機関銃が本格的に使われた戦争は20世紀初頭の日露戦争だったが、機関銃そのものの着想や使用の歴史はさらにさかのぼることができる。

中国で発明され、イスラム世界を経由してヨーロッパで銃器が作られるようになったのは15世紀頃だとされる。ほぼ同じ時代に生きたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)にも連発式自動火器のアイデアがあったと伝えられている。

多数の弾丸をシャワーのように発射して敵を制圧するアイデアは、火縄銃のように、銃口から弾丸を詰める銃が大勢を占めていた時代から、発明家など少なからぬ人々の心をとらえていたということになる。

レオナルド・ダ・ヴィンチによるRibauldequin(リボルドゥキン:ヴォレーガン)のデッサン(Ribauldequin - Wikipedia より)
レオナルド・ダ・ヴィンチによるRibauldequin(リボルドゥキン:ヴォレーガン)のデッサン(Ribauldequin - Wikipedia より)

en.wikipedia.org

その後も機関銃的なもの、つまり。弾丸と発射薬の装填、発射、薬莢を取り出す排莢、次発の装填を自動で行うための研究開発は永く続いた。

連続発射が可能な銃器として最初に開発された「まともな」ものは、複数の銃身を束ねて回転させながら、機械的に装填と発射、排莢を繰り返すガトリング銃だった。完成は1861年、南北戦争が始まった年のこと。当時はまだ後装式(銃口ではなく銃尾から弾を装填する)ライフルさえ普及していなかったことは注目に値する。それほどまでに自動発射銃器への熱望が大きかったということなのだろうか。

1分間に200発もの弾丸を発射するガトリング銃は、前装式ライフルが主流だった時代にあった画期的だった。アメリカ陸軍に正式採用されたのは南北戦争後のことだったが、南北戦争で実際に使用され、改良が施されていく。幕末の日本にも少数が輸出され、戊辰戦争では河井継之助率いる長岡藩が使用している。

ちなみにガトリング銃を開発したリチャード・ジョーダン・ガトリングは、三人程度で百人の敵に対抗できる自らの発明について、大規模な兵力動員を無意味にできるという意味のことを語ったとされる。兵器による平和、武器による戦争抑止という想念は、現在の核抑止論に直結するものとして非常に興味深い。

技術が追いついていなかった機関銃

しかし、ガトリング銃は20世紀の到来を待たずに廃れてしまう。理由の一つは大量の弾丸を必要とすること。そして故障が多いこと。さらにもうひとつは戦場を移動しながら使用するには重すぎることだった。

また、単銃身で連続発射が可能なマキシム機関銃やオチキス機関銃など本格的な機関銃が開発されたことも大きかった。まさに、ガトリング銃に代わって登場した新兵器が、日露戦争の地上戦では使われたことになる。

そこから一挙に機関銃の時代が始まるかというとそうではなかった。日露戦争を観戦した各国の武官たちは戦訓を母国に持ち帰ったものの、ヨーロッパ各国では機関銃のデメリットに対する認識の方が強かったからだ。

6本の銃身を束ねたガトリング銃に比べれば、マキシム機関銃やオチキス機関銃は軽かったが、それでも銃本体と脚部を移動するのに最低3人の兵士を要した。その他に大量の銃弾も携行しなければならない。弾丸の発射の反動や、発射時のガス圧を使って装填・発射・排莢を繰り返す機関銃は、ガトリング銃にも増して複雑で故障しやすい代物だった。

大量の弾丸を消費すること、信頼性が低いこと、重すぎることという短所は解消されていなかった。さらに、複雑な機関部を精密に工作するには高品質かつ均質な鋼鉄が大量に必要で、その上、高度な加工技術も不可欠だった。

本格的な機関銃が登場した20世紀初頭には、信頼性を高めたり、軽量化を図るための「技術」と、大量の弾丸使用を支える「経済的基盤」が十分ではなかったと考えていいだろう。

機関銃無用論

そればかりではない。『機関銃の社会史』(平凡社ライブラリー 訳:越智道雄)を著したジョン・エリスによると、ヨーロッパで機関銃の普及を妨げた最大のものは、当時の軍人、とくに将校たちの間にあった機関銃無用論とでも言うべきマインドだったという。

ヨーロッパの士官には貴族階級の出身が多く、戦争とは英雄的であるべきだという騎士道精神が当時はまだ色濃く残っていた。毎分何百発も発射される機械によって勝敗が決するという戦いを受け入れることができなかったというのだ。

日露戦争の戦訓は、あくまでも後進国同士の戦いでのもので、ヨーロッパを舞台とする戦争とは本質的に違うという意識が、機関銃を軍の正式な武器として認めさせなかったのだ。しかし、国と国との戦いとは異なる場所では、最新式の殺人兵器である機関銃は広く使われることになる。エリス氏は指摘する。ヨーロッパ人はアフリカなどの植民地で機関銃を使用するのに躊躇することはなかったと。

槍や弓矢を手にした現地民の反乱に対して、機関銃は圧倒的な制圧力を発揮した。それは反乱の鎮圧でも戦闘でもなく、一方的な虐殺に他ならなかった。

ガトリング銃を世界に先駆けて採用したアメリカでは、新たに開発された短機関銃(主にピストルの弾丸を使うハンディな機関銃:サブマシンガン)が、労働争議の鎮圧に使われた。禁酒法の時代のシカゴではアル・カポネのようなギャングの武器として使われ、「トミーガン」とか「シカゴ・タイプライター」と呼ばれて恐れられた。

1932年の映画『暗黒街の顔役』でマフィアを演じるポール・ムニ(トンプソン・サブマシンガン - Wikipedia より)
1932年の映画『暗黒街の顔役』でマフィアを演じるポール・ムニ(トンプソン・サブマシンガン - Wikipedia より)

ja.wikipedia.org

20世紀の初頭、軍の指揮官たちから忌避された機関銃は、植民地で抑圧された人々を、あるいは自国民を制圧するために使われたのだった。

第一次大戦の犠牲者の8割は機関銃によって殺された

そして1914年、第一次世界大戦が勃発する。開戦当初、両陣営ともに機関銃の装備数はごく限られたものだった。しかし、英仏軍とドイツ軍がともに塹壕に立てこもり、戦線が膠着する中で機関銃は戦場に不可欠な武器になっていく。

連合国側、とくにイギリス軍は、重機関銃が備え付けられたドイツ軍陣地に対して、ライフルに銃剣を装着し、隊列を組んで進軍しては、機関銃の弾幕によって突撃に失敗するという作戦を繰り返したとされる。

その教訓から生み出されたのが移動式の砲台ともいえる戦車で、敵の機関銃弾を弾き跳ばしながら、塹壕を乗り越え、敵陣を突破するという戦術で運用された。戦車そのものにも機関銃が主な兵器として搭載されていた。

世界大戦を通じて兵器としての進歩を遂げた飛行機の主要兵装もまた機関銃だった。

第一次世界大戦での死傷者の8割が機関銃によるものだったという分析がある。

機関銃は物理的な意味で主要な兵器になっただけではない。機関銃を運用する人々、将軍や士官たちから前時代的なヒロイズムを奪い去った。変化したのは戦闘を命じる将校たちのマインドばかりではない。戦争のあり方は、前装式のライフルで撃ち合っていた時代(約半世紀前の南北戦争の時代でもある)とは比較にならない膨大な死をもたらすものとなった。もしかしたら、人間の死、そして生の意味にも変化が引き起こされたかもしれない。

赤軍兵士とマキシム機関銃。第一次大戦後1920年代後期から30年代前期の写真
赤軍兵士とマキシム機関銃。第一次大戦後1920年代後期から30年代前期の写真

commons.wikimedia.org

いまも続く、機関銃による恐怖の時代

第一次大戦後も機関銃の開発は精力的に行われた。たとえば1933年、アメリカ軍に制式採用されたブローニングM2機関銃は、第二次世界大戦で大量に使用されたばかりでなく、現在でも生産・配備が続けられている。

機関銃の機構を組み込んだライフル、自動小銃も戦間期に実用化され、第二次大戦後世界中に広まった。とくに、ドイツ軍が開発した突撃銃を参考に造られたAK-47やAK-74は安価であることから、世界中の紛争地域で主要な武器となっている。

軍事マニアに言わせると、ピストルの弾丸を使用するサブマシンガンや、AKのようなアサルトライフルや自動小銃も厳密には機関銃ではないということになるらしい。

しかし、引き金を引くだけで毎分当たり数百発の弾丸をシャワーのように発射し、人間を殺傷するという意味では、大量殺戮兵器としての機関銃に他ならない。技術の進歩によって、プレス機と旋盤があれば作れるほど「ありきたり」な武器となってしまったことで、問題はより深刻化している。

機関銃は「マシンエイジ」を象徴する大量殺戮兵器だ。地雷もクラスター爆弾も生物化学兵器も同様だ。「防衛」の名の下にその存在を容認するマインドが人類に存在していることを直視しない限り、世界平和への道は遠いと言わざるをえない。

最終更新:

コメント(0

あなたもコメントしてみませんか?

すでにアカウントをお持ちの方はログイン