こころのつぶやき Vol.3 ~終戦の日にあたり~

sKenji

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僕は旅行が好きで、時々、旅行に行く。海外にも行く。海外では、いろいろな体験をしたり、人に出会ったり、出来事を目にすることがある。

道に迷っていると、昼飯をご馳走してくれ、丁寧にバス停まで連れて行ってくれたシリア人。空港から街への行き方がわからず、困っていた私に、行き方を教えてくれた上に、路線バスに一緒に乗ってくれ、おまけに「海外からの旅行者は、この国のゲストだ。」と言って、バス代までを払ってくれたイエメン人。

彼らの国へ再び行きたいのだが、いずれの国も今は内戦状態や、テロ活動により、行くことはできない。いったい、彼らは今、何を見ているのだろうか。無事なのだろか。暗いニュースを見る度に思う。

中国は好きで、また行きたいと思っている国なのだが、13年前、新疆ウイグル自治区を旅行していた時だった。

バスターミナルの近くで客引きをしていたタクシードライバーが公安(警察)に殴る蹴るの暴行を受けていた。近くにいた人に理由を聞くと「客引」と「ウイグル人」ということが原因だったらしい。

チベットを旅行した時には、現地で知り合ったチベット人に、自宅へよばれて、抑圧されている現状を教えてもらったことを今でも覚えている。言論の自由がないために、公安の目から隠れながら、外国人旅行者を見つけては、声をかけてチベットの現実を訴え続けていた。

私たちが当然のように思っている「平和と自由」は、過去の歴史、現在の世界情勢を見ても、決して当たり前のものではない。繰り返し「戦争と侵略」は行われてきており、その度に「平和と自由」が失われてきた。

私は今、本当に運がよくて、その2つが満たされている「時代と国」に生きている。
当然のように享受している「平和と自由」。

これは、有史以来、人間がずっと求め続けてきたものでありながら、長い間、手に入れることはできなかったもの。

今ある「平和と自由」が、多くの人の犠牲と努力の上に成り立っているものであることは間違いない。

いったい、この2つを求めてこれまでどれだけの人が命を落としたのだろう。

また、今、この時、この瞬間も「平和と自由」を求めて、まさに命がけの人がどれほどいることだろう。

今の私たちは、「お金と時間」という制約はあるものの、好きなように旅行にも行けるし、美味しいものを食べることもできれば、スポーツやコンサートなど、なんでも楽しむことは可能だ。

自由もあり、節度を持った範囲で好きに言いたいことを言える。政府や首相に対して不満を述べても、別に殺されたり、罰せられることもない。

「お金と時間」が足りないことを日々痛感している私たちは、その貴重さをよく知っている。

しかし、空気のように当然のものとして存在している現在の「平和と自由」は、
「お金と時間」以上に、尊いものであるにも関わらず、普段、その貴重さをなかなか実感できない。空気と同じく、失ってから初めて実感するもの。

全ての人間が「欲望」という感情をなくし、「自己抑制」することができなければ、「戦争」というものをなくすことは難しいのではないかと思っている。

けれども、全ての人が「欲望」という、ある意味人間らしい感情を無くすことは、
不可能に近いだろうし、味気ない世界になりそうな気もする。結局、人間が人間らしくある限り、戦争は根絶しないのではないだろうか、なんてことも思ってしまう。

しかし、完全になくすことは難しくても、「戦争」を減らし、「自由」という権利を長く獲得することはできると信じている。そのためには、過去の歴史から学ぶことと、今ある「平和と自由」は約束されたものではないことを認識しておくことが
必要なのではないだろかと思う。

終戦の日の今日、戦争で犠牲になった全ての方々の冥福を祈るとともに、過去の歴史を見直し、「平和と自由」について、もう一度、考える日にしたい。

そして、いつの日か、「戦争」という言葉がなくなり、また、「平和と自由」という言葉さえも無くなった世の中が来てほしい。

「平和と自由」この言葉がなくなった時こそ、本当に「平和と自由」な世界だから。

イエメン
イエメン
シリア
シリア

Text & Photo:sKenji

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