東日本大震災から時間が経ち、記憶の風化が進みつつあると思われる今、震災当時のこと忘れないためにも、そして、記録として残すことの必要性からも自分自身の震災当日のことを改めて振り返ってみようと思う。
地震発生時
2011.3.11。地震発生時、新宿にあるビルの地下1階で仕事をしていた。
「地震だ!」とは思ったが、いつものように揺れはすぐ収まるだろうとも思った。
しかし、収まるどころか増々大きくなる。
すぐにこれまでの地震と明らかに異なるものだと感じた。大きさに加え、揺れている時間が異様に長かったのだ。
いったいいつ収まるのだろうかと隠れていた机の下で思った。過去に全く経験したことがない地震だった。
揺れが弱まってくると、ビルが崩れてくるのではないかという不安もあり、外に避難した。地上に出て、ビルを見上げると、高層ビルが左右に揺れているのがはっかりとわかった。何かの間違いではないかと自分の目を疑った。
地震発生当日
長い揺れが収まった後、職場はいつもの落ち着きを失い、どこか浮き足立っているようだった。電話も全く通じず、家族の安否確認もしばらくできなかった。地震の動揺で、仕事に手がつかない人、集中できない人が多く見受けれられた。
地震の詳細情報はすぐには入ってこなかったが、あきらかに今までのものとは違う規模の地震であるというのは、その場にいた誰もが感じていた。
しかし、この時、震源地から遠く離れていた多くの人は、2万人近い死者・行方不明者がでるとは想像すらできなかったと思う。
定時が過ぎ、帰宅しようとするが、電車を始め、全ての公共交通機関はストップしていた。なんとか徒歩で帰ることができる場所に住んでいる人は歩いて帰宅した。普段はほとんど歩かない人、ヒールをはいた女性までも、経験したことがないような長距離を歩いて帰っていた。
私は徒歩帰宅圏内ではなかったこと、電車が動くのではないだろうかとどこか甘い考えもあり、仕事現場の会議室に設置された大型の液晶テレビでニュースを食い入るように見ていた。
けれども、結局、終電まで待っていたが電車は復旧せず、帰ることを断念した。
その日、職場に泊まることにしたものの、すぐに寝ることができなかった。夜中、外の様子を見に街に歩きにでた。徒歩で帰宅する人が大勢いた。新宿駅に行ってみると、階段や地下街の通路の隅に帰宅困難者が大勢、疲れた様子でぐったりと座ったり、横になっていた。
こんな光景は初めてだった。
地震発生後数日
地震発生翌日、都内の地下鉄は午前中から動き始めていた。混雑を避けるために昼近くになって職場をでたが、それでもダイヤは大幅に乱れ、朝の通勤ラッシュ時以上の込み具合で、通常の3倍の時間がかかった。
帰宅するとすぐに、近所のスーパーに食料や水を買いに行ったが、ほぼ全てのものが売り切れていた。広いスーパーの店内で、食糧品はもちろん、お菓子、飲料水、ガスカートリッジなど、ほとんどの棚ががらんとして何もない状態だった。
異様だった。食料品以外にも、灯油は売り切れ、ガソリンスタンドも多くの店が閉まっていた。給油できる店もいくつかあったが、車にガソリンをいれるのに1,2時間待つ状態だった。
震災直後の土日はニュースに釘付けだった。
時間が経つにつれ、地震の惨状がわかってきた。死者・行方不明者がどんどん増えていき、信じられない数字になっていった。原発のニュースも流れ、状況が気になる。
休み明けの月曜日。
いつも通りに駅に向かうが電車は全てストップしており、その日は出社できなかった。
震災を振り返って
震災直後、生きていく上で必要なものが手に入らなかった。
スーパーに行っても、食料品、飲料水は売り切れ、たまに入ったとしてもあっという間になくなった。食料不安の日が数日続いた。
平和で豊かな時代に生まれ、お金さえあれば、食べ物はいつでも好きなだけ手に入ると思っていたことが、根底から覆された。お金の有る無しに関わらず、食料が手に入らないという不安と怖さを生まれて初めて経験した。衝撃的だった。
原発の建屋が水素爆発で吹っ飛んだ映像を見たときは、原子炉が爆発したのかと思い、もうこの国は住めない場所となり、この世の終わりが来たのではないだろうかと本気で思った。
しかし、震災から2年以上が過ぎ、被災地に住んでいない私は当時の記憶がかなり風化してきていたと思う。あの当時感じた、食料がないことへの不安がなくなり、モノがあることに対して当たり前のように、感じてきてしまっている。
地震発生後、関西に住む学生時代の友人が食料と水を小包で手紙と共に送ってくれた。卒業後、月日が流れ、お互い日々の仕事、生活に追われて疎遠になり、年賀状で位しか連絡をとっていなかった友人が、困った時に真っ先にとってくれた行動に思わず胸が熱くなった。
段ボールには、水、お茶、カップラーメン、うどんを始めとした麺類、トイレットペーパーなどの必要だろうと思われるものがびっしりと詰められれていた。大部分をありがたくいただき、一部保存が利きそうなものは、余震が続いていたため、大切にとっておくことにした。
しかし、その後時間が流れ、前と同じような生活に戻っていくにつれ、こともあろうか、せっかく送ってくれた友人からの暖かい贈り物のことも忘れてしまっていた。
後日、大掃除の際に消費期限が切れてしまった友人からの支援物資を見つけた時には、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
人は良くもあり、悪くもあるが、過去の痛みを時間と共に忘れてしまう。だからこそ、改めて過去を思い返す時間も必要ではないだろうか。
友人からの大切な贈り物を忘れてしまうという大罪を犯してしまった自分は、罪の償いの意味も込めて、震災のことを忘れてはいけないと、当時のことを改めて振り返っている。
Text:sKenji
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