片道分のチケットで島を訪れ、そこでお金が尽きた赤い男【旅レポ】

tanoshimasan

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彼と初めて会ったのは2007年2月、父島へ向けて出港したおがさわら丸の船内だった。600人近くが乗船した船のなか、その存在は明らかに目立っていた。赤装束とでも言えそうな赤ずくめの服。赤と言っても、黒に近いほどの濃い赤から、ピンクに近いような薄い赤まで様々で、それらの色の絵の具が混ざりあう瞬間のような、不思議な色合いの格好の男だった。さらに赤い帽子を被り、眼鏡(サングラス?)をかけている。昔の言葉で言えば、「ヒッピー」のようなそれだろうか。すれ違えば、誰もが振り返るのだが、本人は馴れているのか(?)気にしていない様子だった。

僕は小笠原諸島を初めて訪れる。必ず行きたいと思っていた念願の小笠原。クジラやイルカが当たり前のように見られる常夏の島。日本だけど日本じゃない、まるで異世界だと聞いていた。僕を含めた大学の部活の友人7人は、船がたどり着く先の世界に期待して心を躍らせていたのだ。が、船の中でイキナリそんな人に出会ったものだから、早々と面喰らってしまった。

持っていたのは片道分のチケットとアコギと1万円ほどのお金だけ

島ではジャングルのトレッキングや、シーカヤックなどを楽しんだ。船では600人近い乗客がいたものの、山に海にと遊びに行けば、ほかの人と会うことも少ない。まるで貸切のような気分で島を楽しみ、この日の宿「エコビレッジ プーラン」に戻った。

「あっ!!!」

そこにいたのは、船内一目立っていたあの赤の人である。

このプーランでの食事は、同じ食堂で皆が集まって食べるシステムだった。この日のお客さんは僕ら7人と赤い男とオーナーだけ。7人ともが人見知りな僕ら、どうなるのかと構えていたが、30分もすれば驚くほどに盛り上がってしまっていた。

彼は自らを「音骨(オトボネ)」と名乗った。会話の節々から察するに、おそらく30代前後だと思われる。かなり強めのタバコを吸い、瓶に入った酒(たしかテキーラ)を飲みながら、何時間も語り明かしたのではないだろうか。僕らは、破天荒な彼の話があまりにも新鮮で、ついつい聴き入ってしまった。船で見たときのような、独特の近寄りがたい雰囲気は、いつの間にか無くなっていた。

東京で音楽活動をしていたそうだが、都会では何をやっても人真似になってしまうこと、都会での暮らしになんとなく疑問を感じていたこと、持っていたのは片道分のチケットとアコギと1万円ほどのお金だけだったことを話してくれた。もちろん、このままでは帰るお金も無いらしい。それどころか、この宿にも長居はできないようである。「とりあえずギターがあればいいんだよ」と言う。

この話の何が刺激的だったかって、もう、本当に何もない状況なのに、あっけらかんとしている彼そのものだった。

「ここに来る前にさ、100人中99人が『おめぇみてぇなクソが何言ってんだ』って言ってたんだよ。別に良いんだよ。俺がナンバー1だ。そう思って生きていれば幸せなんだから」

前後の会話の内容はうろ覚えながら、この台詞はしっかり覚えている。

とうとうお金が尽き、海で大根を洗う男

翌日にはプーランを離れて別の宿へ。そして翌々日、僕らは朝一番でジョンビーチ、ジニービーチに向けて出発した。ジョンビーチ、ジニービーチは、知る人ぞ知るトレッキングコース(※1)。そこから見える景色が素晴らしいと人気だが、そこそこ険しいためか、挑戦する人はあまり多くないと聞いていた。

この日も、僕ら以外に人の気配がない。と、思っていただけに、車道の脇からガサガサと音が聞こえたとき、「えっ!なに?なに?」と、戸惑ってしまった。すっかりお馴染みとなっていた赤い男、音骨さんがそこにいた。

「いやぁ、海で大根を洗ってたんだよ」

と、両手にはギターと大根。一昨日と同じように、あっけらかんとした彼。僕らは「何やってるんですか!!!」と、爆笑してしまった。とうとうお金が尽きたらしく、プーランでもらった大根を片手に、前日から防空壕(※2)ですごしていたらしい。想像以上のことを簡単にやってのけ、しかも飄々としているのだから、不思議と笑えてしまう。

僕らは音骨さんと一緒に写真を撮ったあと、「頑張ってください!」と、声を掛けて別れた。「頑張ってください!」なんて、今思えば気楽すぎる声援なのだけれど、ほかにどう声を掛けて良いかも分からなかった気がする。僕ら7人の旅で、彼と会ったのはこれが最後だった。


 (※1)現在は徒歩でジニービーチに行くことは禁止されている。船などで海からの
   上陸は可。
 (※2)第2次世界大戦の舞台となった小笠原にはいくつかの防空壕が残っている。

文無し、防空壕暮らしだった男が、島で音楽活動を形にしながら結婚までした

旅のあとも、僕らは音骨さんのことが気になって仕方なかった。あの時点では、お金も人脈も仕事もない彼だったが、それでも、飄々と生きているのだろうと、僕らもなんとなく確信していた。そんな時、仲間の一人が彼のブログを発見。それからしばらくの間、彼のブログの更新を見ては、「凄いなぁ」と言い合っていた。語尾に「~~death」と付けて語る独特の語り口も、何だか僕らをワクワクさせてくれた。

どういうわけか、父島の隣・母島で宿のスタッフとして働いていること、島の子供たちからギター侍と呼ばれていること、出会って1週間と少しの女性と婚約したこと。母島のことを歌った曲をメインにCDを発売したこと・・・。

防空壕で一晩過ごしていたころから、わずか半年程度のこと。今では、すっかり島の有名人になっている様子だ。大学生として、僕らが平々凡々な日々を過ごしている間に、小笠原の地で、この人の身に、いったい何が起こったのだろうか。それはわからないけれど、ただただ凄いと思えた。

彼は、自分たちとは違うから目立って見えた。僕らも外から眺めるだけだから、笑って彼の話が聞けた。小笠原で出会った時点では、目の前にいるのにどこかフィクションのような存在だったのだ。

学校では就職活動の機運が高まり、キャリアセンターの就活セミナーや、合同説明会といった言葉が飛び交うようになっていた。数千人の同級生が、足並みを揃えて動き出す。「この流れに乗らなきゃ、出遅れる」そんな雰囲気が充満していた。音骨さんの影がちらついたのはそんな時のふとした瞬間だったと思う。

僕は迷った挙句大学を休学し、小笠原行きを予定に組み込み、一人旅に出ることにした。何が無くとも生きていける人、これが何よりも強い人だと思えてきたのだ。

「文無し、防空壕暮らしだった人が、島で音楽活動を形にしながら結婚までした」

背中を押してくれたのは、この事実とそれを飄々とこなした赤い男だった。

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