約2年半前に広島市を訪れた際に、平和記念公園、広島平和記念資料館そして本川(ほんかわ)小学校平和資料館を見学。その際、被爆後の校舎が残るもう一つの小学校に行けずじまいでした。
今回はそれ以来の広島訪問。その学校を見学することができました。
平和記念公園の西に位置するのが本川小学校。そこから歩いて“T字型”の相生橋(あいおいばし)を渡り、今度は東側に位置する広島本通商店街から少し離れたところにあるのが袋町(ふくろまち)小学校(当時は袋町国民学校)です。
こちらにも現校舎があり、隣接する形で「袋町小学校平和資料館」が運営されています。
袋町小学校平和資料館
この学校で起きたこと
1945年(昭和20年)8月6日の午前8時15分、原子爆弾が投下され、目標地点の相生橋より南東に位置する島病院(現在は島内科医院)の上空580メートルで炸裂。
爆心地からさらに東へ約460メートル離れた場所に位置していた袋町小学校にも被害が及び、木造の北校舎と講堂はすべて倒壊及び全焼しています。
一方、鉄筋コンクリートで造られた地上3階地下1階の西校舎のみが原形を留めました。ただ、校舎の外郭こそ残りはしたものの、柱は折れ、窓枠も吹き飛んだ状態。そして校舎内にあったものは焼き尽くされました。
学校には疎開していなかった児童、教職員が登校していて、朝礼を終えた直後でした。爆撃を受けた児童65名、教職員10名が即死。いまだに行方不明者のままの方もいます。
講堂と北校舎を吹き倒し、燃え上がらせ、人々を地面に強く叩きつけたと思われる。
袋町小学校平和資料館
言葉ではこう示されています。
突然走った強烈な光、すさまじい轟音、数百万度の高温、建物を倒すほど爆風。その直後広がった火の海…。
自分の頭でどんなに想像しようと思っても、この地獄のような光景を想像しきることができないままでいます。
どこかで別世界のことのように見ているのではないか。あり得ないことだと思っていないか。でもこれは実際にあった出来事。現実を突きつけられてなかなか整理できていないまま。そんな状態です。
この本川小学校で地下が使われていたのはごく一部だったそうです。当時は主に下足置き場として使用され、その隣に配電室、浄化槽などが配置されていました。
西校舎の地下室にいた3人の児童は生存していました。本川小学校にもありましたが、地下室には下駄箱があり、外からここまで降りて靴を履き替えていたようです。
以下、生き残った児童(当時)の証言。
地下室へ降りた時に急に暗くなって下駄箱の下敷きになった。外へ出ようとしたが、真っ暗やみの中で炎があがっていた。
袋町小学校平和資料館
地下にも相当な衝撃が及んでいたのではないでしょうか。
被爆後の小学校
家屋など多くの建物が倒壊し焼失した中、残った校舎は被災者の救護所として使われました。
各階には、県の医療団や衛生課が配置され、一部は倉庫として使用。被爆翌日から救護活動の拠点になりましたが、このような迅速な対応の裏には、もともと爆撃などに備えて国民学校には救護体制が整備されていたことが影響しています。
当時、医師は十分にいなかったことから、手当に目処が立つと、次の救護所へと移動を繰り返し行っていたようです。
救護所にいた医師の手記によれば
・この救護所に医師は2名。そこには350名ほどの被爆者が運ばれた。
・重症者は教室の床の上でごろ寝しかできない状況だったほど「ギッシリ」の状態。
・被爆後12日(手記を書いた時点)も経過しており、一応の手当を受けたことで多くの人の精神状態は落ち着いていた(泣き叫ぶ人は少なかった)
・しかし、不安と瀕死の苦しみは続き、悲惨なお産や毎日沢山の死者が出た。
・運動場が火葬場となり、遺骨は木箱に入れ名前がわかる人は名を書いた紙を骨箱の上の壁に張った(身内が探しに来た際に骨の一部を分けた)
痛みを抱えた負傷者、病人。また、そこには妊婦、新生児も。そして死者…。多くの人々がうごめき、ひしめき合っている。
一言では言い表せないような様々な人の痛みや苦しみ、過酷な状況がここにはあったのだと思います。
続く
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