長崎への原爆投下を語り継ぐ「たった72年前のこと」

cha_chan

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噴き上げる巨大なきのこ雲。
なにが起きたのか。
人びとはどうなってしまったのか。
雲の下の真実を知ってください。
ー忘れないでください。
ー伝えてください。
(長崎原爆資料館より)

・・・

1945年8月9日午前11時02分。人類史上2回目の原子爆弾が長崎に投下されました。

長崎に原爆を投下したB29(ボックスカー)から撮影されたきのこ雲の写真
長崎に原爆を投下したB29(ボックスカー)から撮影されたきのこ雲の写真

原爆投下について考えるようになったキッカケは1本のラジオ番組

私の母は長崎出身です。私も2歳までは長崎に住んでいました。長崎にいる母方の祖父母に会いに、小さい頃から毎年夏休みになると長崎に行っていました。

私が中学生になるくらいまでは長崎の家は浦上地区の川口町というところにありました。原爆の爆心地からは北へ500mくらいの場所です。平和公園や爆心地公園は本当に身近にありましたが、原爆のことには無関心でした(意識しないようにしていたという方が本音です)。

小学生のころ一度、原爆資料館に行ったことがあります。そこには生々しい展示物や写真などが資料として淡々と並べられており、見てはいけないものを見てしまったような気分になりました。自分の通っていた小学校にも広島の原爆を描いた漫画「はだしのゲン」が図書室にありましたが、同じような気分になり最後まで読むことができませんでした。

「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉がありますが、祖父母からは米国の原爆投下に対する怒りはおろか、戦争の話をしても原爆のことにはなぜか触れたことはありませんでした。母も長崎で育ち、被ばく2世の小学校の同級生が小児白血病で亡くなった経験をしています。しかしそんな母からも原爆の話は聞いたことがありませんでした。私も無意識のうちに聞いてはいけないことなのだ、と悟ったのだと思います。

そのまま私の方から原爆のことについて尋ねることなく祖父は他界しました。いま思えば、祖父に原爆のこと、戦後の長崎のことを直接聞いておけば良かったと後悔しています。

そんな私が、「アメリカ人の半数以上が原爆投下は正しかった」と考えているという調査結果を聞いたとき、素直に結果を受け入れられませんでした。この調査結果について、お笑い芸人の松本人志がラジオで取り上げて話題になりました。このラジオを聴いたことで長崎への原爆投下に目を向けようと思うようになりました。

アメリカ国民5割原爆投下間違っていなかった。松本人志がキレて号泣。

YouTube

松本人志の放送室より

ラジオで語られた主な内容は下記のようなものでした。

日本では原爆を落とされた日に「過ちは繰り返しません」と誓い、報道でも原爆の悲惨さを毎年放送している。しかし原爆に関しては日本は被害者。被害者が被害者に伝えていってもダメで、アメリカに対してもっと発信していかないと変わらない。
(「アメリカ国民5割、原爆投下間違っていなかった」という調査結果を受けて)

爆心地公園、平和公園、原爆資料館をめぐる

今回ゴールデンウィークを利用して長崎に帰省する際、原爆投下時に長崎で何が起こったのかを自分の目で確かめるため、爆心地公園、平和公園、原爆資料館へ行ってきました。

平和公園の全体地図(長崎市ホームページより)
平和公園の全体地図(長崎市ホームページより)

爆心地公園

72年前、この公園の上空500mで原子爆弾が炸裂しました。空襲警報が解除されいつもどおりの生活に戻った矢先の出来事でした。長崎市街中心部から約3kmも北にそれた場所にもかかわらず長崎市は壊滅的な被害を受けました。原子爆弾による長崎市の被害状況は以下のとおりです。

・当時の推定人口
  24万人
・1945年12月末までの被害者数
  死 者  73,884人(65%は子供、女子、老人)
  負傷者  74,909人
  罹災戸数 18,409戸(全焼11,574戸、全壊1,326戸、半壊5,509戸)

死傷者約15万人は、当時の長崎市人口約24万人の62%。全焼失面積は、市街地の1/3にあたる6.7平方kmにもなります。

爆心地となった浦上地区の松山町は当時約300世帯、1,860人余りの市民が生活していましたが、偶然にも防空壕の中で遊んでいた9歳の少女1人を除き全員が即死しました。少女は一緒にいた小さな2人の妹が爆風の衝撃を和らげてくれて奇跡的に助かったそうです。

原爆落下中心碑
原爆落下中心碑

72年前、この原爆落下中心碑の上空500mで原子爆弾が炸裂しました。原子爆弾が炸裂した直後の松山町は、想像を絶するような灼熱地獄で荒れ果てた焼けた土に黒こげの死体が無数に横たわっていたそうです。

「75年間は草木も生えない」と言われたこの場所はいま、小さな子供の声で賑わう緑豊かな公園になっており、悲惨な出来事が72年前に起こったことがとても信じられませんでした。

被爆当時の地層からは当時住んでいた人の生活がうかがえる
被爆当時の地層からは当時住んでいた人の生活がうかがえる
原爆の熱線で表面が溶けた瓦
原爆の熱線で表面が溶けた瓦

公園の横を流れている川に降りると、被爆当時の地層を見ることができます。現在の公園は復興工事で2mほどかさ上げされています。公園のあった場所は当時は民家が多くありました。

公園の地下2mの黒い地層からは100余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦、 炭化した木片が出土しました。この地層では、瓦、レンガ、熱で溶けたガラス、茶碗、針金など、当時ここに住んでいた人の生活の様子がうかがえます。

 瓦の表面が溶けてできた、ガラス質の泡状の火ぶくれがあり、原爆の熱線をうけた痕跡をはっきりととどめています。このようにガラス質の泡状ができるには表面温度が2000℃以上の熱を数秒間照射する必要があるといわれています。この地が、当時高温にさらされたことを瓦が語っています。

浦上天主堂遺壁
浦上天主堂遺壁

公園内には爆心地から北東約500mの小高い丘にあった浦上天主堂の遺壁が設置されています。

東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、原子爆弾の炸裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。原爆が炸裂した時刻には教会内ではミサが行われており、全員が死亡しました。この側壁は聖堂の南側の一部で、昭和33年に新しい天主堂建設のためにこの地に移設されたものです。壁上の石造は、フランシスコ・ザビエルと使途です(原爆資料館より)

浦上は、徳川家康の禁教令から過酷な弾圧の中、250年もの空白期を隠れキリシタンとして信仰を守り通してきました。長崎で禁教令に隠れて250年もの間信仰を守り通した奇跡は、ローマ法王の耳にも届いており長崎の奇跡は世界中に知れ渡っていました。

その浦上のカトリック信徒らが30年の歳月をかけて赤レンガを一枚一枚と積み上げ、大正14年に双塔の高さが26メートルという東洋一の聖堂を完成させました。その歴史的な背景から、もし原爆により破壊された浦上天主堂が取り壊されず保存されていたら、広島の原爆ドーム以上に平和の象徴として重要な文化財となっていたかもしれないだけに非常に残念に思います。

浦上天主堂が取り壊された背景について調べてみましたが、どうも政治的背景があるように思えます。インターネット上でも多くの方がこの問題を取り上げているので興味のある方は調べてみてください。

浦上天主堂(Wikipedia)
 浦上天主堂(Wikipedia)
ja.wikipedia.org  
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」(Amazon)
 ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」(Amazon)
www.amazon.co.jp  

平和公園

平和祈念像
平和祈念像

最終更新:

コメント(3

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  • C

    cha_chan

    akaheruさん、コメントありがとうございます。

    「平和への願い」を引き継ぐ。本当にそのとおりで、原爆で命を落とした人々の犠牲を無駄にしてはいけないと思います。

    自分も含め戦争や原爆に対する歴史を知らない人がほとんどだと思います。日本の教育に問題があるのかもしれません。受験勉強の歴史ではなく、本当に必要な歴史教育が必要だと思います。

    戦争や原爆について学ぶとき、身近に戦争の体験者や被爆関係者がいらっしゃる場合は、その方から直接お話を聴かせてもらうのが何よりも貴重な体験になるはずです。

    そういう場や時間が限られている中で、どうやってそれを作っていくかを考える必要があると感じています。

  • A

    akaheru

    今でも覚えているのは、私が小さい頃に家族で平和記念公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑の前で祖母と共に祈りを捧げた時の、祖母の長い長いお祈りです。小さな声でなにかを話していました。亡くなった友人一人一人に語りかけていたのかもしれません。きっと今は天国で再会した友達とともに、平和を願ってくれていると思います。

    私達が今ここにいるのは、大変な状況の中で祖父母が命をつないでくれたから。

    そのことに感謝をし「平和への願い」を引き継いでいかなければいけないですね。

  • A

    akaheru

    >祖父に原爆のこと、戦後の長崎のことを直接聞いておけば良かったと後悔しています。

    私の父方の祖父母は広島出身で、祖母はきのこ雲を見たと言っていました。
    残念ながら二人共に他界しており、cha_chanさんと全く同じ後悔を今もしています。

    戦争のこと、そしてあの日のことを尋ねたことはあるけど、詳しくは話してくれませんでした。

    あまりに悲惨な出来事だったため孫に話すのをためらったのか、話すことで思い出すであろう、この世のものとは思えない光景が脳裏に蘇るのが怖かったのかも今となっては分かりません。きっと両方だったのだと思っています。