広島に原爆投下されてから68年の歳月が経ちます。多くの人の命がここで失われたことは決して忘れてはいけない、伝えていかなければならない悲劇です。修学旅行の生徒をはじめ海外からの観光客も毎年たくさん訪れる広島平和記念資料館。今回登場頂く志賀さんは今春ここの新館長として就任されました。これからこの資料館を通じて「あの日のこ」を今後どのように伝えたいか、改めてお聞き致しました。
志賀 賢治(しが けんじ)
広島県広島市出身。1952年生まれ。1978年名古屋大学法学部卒業。1978年広島市役所採用。社会局地域福祉課監査指導室長、企画総務局人事部研修センター所長、企画総務局情報システム課IT推進室長、企画総務局IT推進課長、企画総務局情報政策担当部長、広島市立大学事務局長、健康福祉局長、人事委員会事務局長などを歴任し、2013年広島市役所退職。2013年4月より現職。
祖母の火傷痕をそのまま受けとめていた幼少期
――広島平和記念資料館長として今春就任され、被爆二世の館長さんは初めてとお聞きしました。今日は館長さんの幼少期の頃をひも解いて、これからの平和教育のお考えについてもお聞かせ頂ければと思います。戦後の広島はどんな時代でしたか?
私は原爆が落ちて7年後に広島で生まれました。祖母が被爆者で顔の下唇から上半身、両手にケロイドがあってお箸をもつこともおぼつかなかった。爆心地から1.5キロ圏内で原爆に遭ったそうです。祖母は黒いかすりを着ていたため熱線を吸収しやすかったのでしょう。白い着物は熱線をはじくので、白い腹巻をしている人はそこだけ火傷しなかったが、着物に黒い模様があった人は模様がそのまま火傷となった人もいた。ただ、それについて詳しく本人から聞くようなことはなかった。友達のほとんどに被爆した家族がいたんですが、広島に生まれた人は意外と家族から体験を聞いたことがないんです。
――あまりにも酷い惨状で言葉にできなかったのかもしれませんね。
しかし、学校教育やニュースなど他からは原爆のことを耳にしました。8月になると広島は政治的な絡みもあって賑やかになるのが段々鬱陶しく感じてきて8月の外出を控えるようになりました。平和記念式典に参加するようになったのも仕事についてからです。8月6日の午前8時15分になると、昔は、市内の全ての事業所のサイレンが一斉に鳴ってみんな黙とうしました。当時は電車もバスも止まり、官庁も銀行も休みでした。一斉に休みになった理由はほとんどの人が法事だったからです。
――そうした時代を経て、昭和30年代の幼少期はどのように過ごされていらしたのでしょう?
比較できないからわかりませんが、広島は皆食べてくのに精いっぱいだったように思います。子どもが何か習い事をするという状況ではなかった。ただ、僕らの小学生時代は学習塾のブームでしたし、私立の中高一貫校へ進学するために塾へ通ったことがあります。
――原爆投下され今夏で68年目となります。広島を伝えていくための館長さんの使命とは?
今から10年ほど前、若い人とは感覚的に違うなぁと思うことがありました。若い市役所職員にも、8月6日のことをさほど意識に留めない人が出てきた。幾分かの違和感を覚え始めています。私はずっと市役所職員でしたが、大学の開学準備をしたり、インターネットを活用できるよう企画を考えたり…いわゆるお役所的ではない仕事をして参りました。平和記念資料館長は目指してきたポジションではありませんが、広島で生きてきた私にとって、この仕事は、広島に生まれ、広島で生きてきた自分と切り離せないものです。これまでの11人館長の多くは、被爆と何らかの関係がありました。しかし、私は、戦後生まれですから時代の変遷を感じながら、この役割を務めたいと思っています。
「記憶の博物館」として伝え続けるために。
――原爆投下後70年は草木が生えないと言われていた広島での復興は大変だったと思います。
私が幼少期だった昭和30年代は「人影の石」(寄贈/住友銀行広島支店)がまだバス停横にありました。広島平和記念資料館へ寄贈されたのは昭和40年代になってからです。高度経済成長期になるまで街の其処ここに原爆投下の爪跡が残っていました。どのくらいの人が亡くなったか正確な人数すら把握できていませんが、少なくとも7万人の名前のわからない方の遺骨を納めた納骨堂があります。きっと、今も、広島の土の中には、遺骨が眠っていることでしょう。
――遺品は展示されている物と収蔵庫に所蔵されているものを合わせると膨大な数になるのでしょうね。
お預かりしている収蔵品は2万点余りあります。決して美しいといえるものではありません。数千度の凄まじい爆風、とてつもない放射線に爆された醜く、あの日の凄惨な記憶を留める資料や遺品たちばかりです。ご遺族もこうした遺品を複雑なお気持ちで当館へ託されますし、今も絶えることなく遺品が寄贈されます。当館の学芸員は、遺品を受け取る際、遺品にまつわる物語と遺族によって語られる生前の持ち主の記憶を伺い、記録に残しています。私たちがこれからも取り組みつづけることは、あの日に一体何が起きたのか、一つひとつ掘り起こし、再現していくこと。そして、伝え続けてゆくことです。それが「記憶の博物館」の役割だと考えています。
――平和記念資料館の近隣には原爆ドームがありますが、あの建物も当時を物語る一つですね。爆心地からほど近い広島城は戦後復元されたとか。
原爆ドームは爆心直下にありましたので建物ほとんど飛ばされずに残りました。屋根は溶けてしまい、爆風に突き破られましたが、周りの壁は上からの力には耐えられたんですね。広島城は国宝でしたが、残念ながらほとんど原型を遺さない形で飛ばされ戦後復元をされました。原爆投下された直後の広島市内の模型も展示していますが、本当に何もかも無くなってしまった。アメリカ軍による当時の写真が残っていますが、彼らは広島を実験台として原爆投下をしましたから、克明にその後記録を残しています。そして原爆投下された翌月の9月に広島に猛烈な台風が上陸し、さらに1000人以上が亡くなりました。原爆で燃え残った街のすべてをかき消すように流しました。広島で台風というのは私が生きてきた60年を振り返ってもあまり経験ないので大変珍しいことでした。
――現在でも被爆の後遺症に苦しまれている方もたくさんおられます。平和記念資料館では、今後どのような取り組みをされる予定ですか?
今後5年掛けて建物を改築します。ここは国の重要文化財に指定されています。上野の近代西洋美術館も重要文化財に指定されていますが、あれはフランスの有名な建築家が手がけていますが、こちらは丹下健三という日本の建築家です。60年前に建ったものですので耐震強度をもっていないのでそれを克服します。ところが重要文化財はオリジナルに手を加えてはいけないというルールがありますので試行錯誤しながら進めていきます。アナログの映像なども、デジタル技術を取り入れた見せ方に。また、ほとんどの方が東館で時間を費やされているので、その動線を変えるため展示物の見せ方を変える計画もしています。
年間130万人が訪れる場で被爆の実相を伝える。
――館内に展示されている被爆した親子のジオラマ人形撤去する是非について報道されています。撤去の真意とはどんなことですか?
検討委員会では「撤去する・しない」は議論の中心にはなっておらず、昔から「ジオラマ人形に被爆のイメージを頼ってはダメだ」という共通認識があります。ご覧いただくとおわかりになりますがジオラマ人形は、事実よりもずいぶん表現を緩和して作られています。被爆された方は服も溶け、あるいは飛ばされ裸でしたし、皮膚は酷い火傷でただれてしまい肉が溶けて骨も見えていたり、眼球も飛び出していたり、髪の毛など一瞬のうちに溶けて無くなった。今は、私たちはジオラマ人形と比較して「こんなものではなかった」と多くの被爆者から聞くことができ、自分の見た情報を修正することが出来ますが、いずれ実際に体験した被爆者もいなくなり、そのような修正すらできなくなる時代がやって来ます。と同時に、火傷一つせずに被爆した人も投下された12日後、血を吐きながら亡くなっている方もおられます。恐らく今きちんと伝えていかねばならないことは「放射線の被害」です。これは今でも続いていることですから。原爆による被害はさまざまな形であります。そうしたことをトータルで伝えないといけないと思っています。
――展示の見せ方を変える一環で、ジオラマ人形撤去のお話しもあるわけですね。
恐怖感を伝えるだけでは心の奥底に響かないのです。人形が怖い…という印象だけ持ち帰られて、今も続いている被爆の事実が伝えきれていない。東館の展示物は文字要素も多く読んでいるうちに時間が過ぎて、所要時間は約50分。私たちが伝えたい被爆者の遺品展示には約10分。その時間配分を変え、先に遺品展示をご覧になってもらえる工夫をしようと考えています。この資料館の使命は、被爆の実相を伝えること。被爆者の平均年齢は78歳です。あと5年間のうちに被爆の実体験者はもっと減るでしょう。そうなると、私たちの博物館が記憶を伝える唯一のよりどころになります。生の声がなくなる分だけ、正確に伝えていくこと。50年後も100年後も、通用する展示にしなければと思います。年間130万人もの方が訪れる当館は、海外からのお客様も多いので多言語化も進めます。
――これから育つ子どもたちへの願いをお聞かせ頂けますか。
想像力を発揮してほしい。例えば、カメラマンの石内都さんが被爆して亡くなった方の紫色のワンピースを撮る時も、ファインダー越しに写すのは物そのものだけではなくてもっと深い意味で想像力が働いていると思います。自分と同じくらいの年齢の子が惨い亡くなり方をしていることを我がこととして受けとめられるか。リンダ・ホーグランド監督『ひろしま~石内都・遺されたものたち』や、詩人のアーサー・ビナード作『さがしています』などの作品からも読みとれますが、一人ひとりの死者の嘆きに耳を傾け、死者と対話をしてほしい。被爆を固定化してイメージされたくないのです。共感する力を身につけてほしいと願っています。
――最後に、新たな広島の一面を伝えるアート作品について、館長さんのお考えをお話しください。
物事を伝え続けてゆく方法は大きく分けると2つあります。ひとつは科学。博物館が担っているのは科学の分野ですので、今いろいろな専門分野、医学、物理学、政治学、歴史学などの専門家を集めて展示の見直し作業を始めたところです。そうすることで正確に、かつ詳しく伝えようとしています。そして、もう一つは芸術。遺品の持ち主たちの美しかった『生』を共有することに最も力を注いでいるように思います。これまでも多くのアーティストが作品を通して被爆を伝えてこられました。でも、戦後68年目にして新たな視点をもつアーティストが登場したことはうれしいですし、これからできるだけそうした手法もバックアップしていきたいと思っています。私たちはあの日に何があったかを伝えつつ、希望を語っていきたいのです。
編集後記
――ありがとうございました!私にとって今回が人生初広島。書物や広島の被爆体験者の方からお話しを伺ってきて知識はたくさんあるつもりでした。でも、やはり実際に行ってみないとわからないこと。遺品の数々を目でみて感じることがたくさんありました。なぜ広島が原爆投下の実験台にされたのか?という背景も今回多くの学びがありました。そして一部マスコミがセンセーショナルな取り上げ方をしている被爆ジオラマ人形撤去についても、報道のされ方がとても偏っていると感じています。真意は館長さんの語ってくださった通りです。被爆で亡くなられた多くの方のために、自分にできることは何だろう?と深く考える取材旅行となりました。
取材・文/マザール あべみちこ
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