祖父について調べるうちにそもそも日系人とは?などの疑問が浮かんだことで、見学した海外移住資料館。館内は無料で見学可能。設立20周年を記念して今年の4月にリニューアルされました。
今回は、日本人移民が海外でどんな生活をしていたのか?
です。
海外への出稼ぎが本格的に始まったのは1880年代後半。
「農園等で何年間か働いた後、日本に戻る」という約束のもと、日本から海外へ出ていくのですが、当時主流だった3年間という労働期間が終了後もそのまま海外に残る人もいたようです。
自営農を始めたり、街で商売する人。また、別の国や地域に移り住む人もいたと言われています。
3年経ったら日本に戻るか、それとも海外に残るか。
個人の事情によるものだけでなく、家族の問題や政治情勢などの影響を受けることもあったのでしょうし、やむを得ず海外に残るという判断する人もいたのだろうと想像します。
個々にさまざまな理由をありながら海外に定着した人。この人たちがいたからこそ、今の日系社会があるのだと思います。
日系人の仕事
この展示コーナーでは日系人の様々な仕事について伝えていますが、ここでは祖父が暮らしていたカナダでの職業を中心に見ていきます。
林業、鉱業に携わる人、商店を営む人などもいましたが、中でも気になったのがサケ漁。
カナダの山あいからバンクーバーの海まで流れるフレーザー川のサケは有名ですが、当時からアメリカ西北部、カナダ、アラスカに赴いた日本人にとって貴重な働き口でした。
サケの遡上にあわせて短期間で行う漁なので、あくまでも期間限定ではありますが、比較的高い給料を得られる仕事だったとのこと。日本人を受け入れ先として、当時バンクーバーで多かった製材所も盛んでしたが、漁港や缶詰工場も同じように中心的な存在だったようです。
もう一つ気になったのは農業。
日本人は移住し始めたころは、当然ながら自身で土地を持つことはできず、借地で栽培するという環境下でありながらも、収穫量アップ、また質を見ても着実に改善されていったことで現地で評価を高めていきました。
展示されているのは実際に市場で売られていた野菜。たくさんの種類を栽培し、出荷していたようで、日本では馴染みがないもの。一方、ミョウガやシイタケなど日本でよく食べられている野菜も出荷されていました。
日系人の娯楽、教育
当時、日本人は移住先でどんなことを楽しみにしていたのでしょうか。
一つはスポーツ。各地で大会も開かれるようになり、特に目立っていたのが運動会。現地の人の間でも「ウンドウカイ」として認知されていたとのこと。
スポーツというと映画にもなった野球大会のイメージはありますが、相撲も盛んで、こちらも大会が開かれていました。
また、文化的娯楽でいえば、小説や俳句などの文学作品で楽しんでいた人も多かったようです。こちらはアメリカを中心に戦時中の強制収容所で活発になったとのこと。他にも日本舞踊や茶道、華道。さらに演劇や映画鑑賞にも人気がありました。
日系社会の発展に教育も欠かせない要素です。
若者を中心に出稼ぎが始まった頃は、まずは生活を軌道に乗せることを目標に日々取り組んでいたため、子どもの教育は二の次。
そんな中、十分な教育を受けずに帰国する子どもや、日本語に触れないまま育つ子どもがいることを見てきたことをきっかけに、「日系社会でもきちんと教育が受けいられるようにしたい」という思いから日本人学校が設立されました。
こうした学校がつくられたことで、学びの場として役割だけでなく日系人にとって重要なコミュニティの場でもありました。
何もないところから「社会」になるのは簡単なことではなく、ここには書かれていない出来事や当時暮らしていた人たちの苦労など、様々な過程を経て積み上げられたものだということが感じられました。
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