広島平和記念公園を歩いて感じたこと(1)

orangeoor18

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袋町小学校平和資料館から徒歩で平和記念公園へ。

園内の原爆ドームの北側に位置する慰霊碑の前で約束していたガイドの方と待ち合わせです。

周辺には、自分と同じようにガイドの方の解説を聴いている人もちらほら。また、親が被爆者にあたる方、地元に住んでいる方がボランティアで活動(週末が多いそうです)しており、予約がなくてもお話しを聴ける場合もあります。

約束の時間になったので、ご挨拶。今回ガイドをしてくれるのはSさんです。

その日、別行動をしていた妻、息子と一緒に静岡から広島まで来たことを告げると

「いや~、一緒に話を聴いてほしかったな~。」

お孫さんがいらっしゃるようで、大の子ども好き。といった雰囲気が伝わってきます。「2歳の息子にはまだ早いか」と考えた上での別行動でしたが、もしかしたら何か感じられるものがあったのかもと思うと、連れてくればよかったと少し後悔しています。

そんなやりとりをしながら、さっそく園内をまわっていきます。

公園だけど公園ではない

「ここは公園と言われますけど、公園ではないんです。」

Sさんはこれをまず最初に伝えてくれました。きれいに整備され、緑も多く、憩いの場でもあるこの地を巡っていく前に、おそらく最も強調したい部分なのだと思います。

民家や商店等が密集していて、繁華街として栄えた中島地区。被爆後に瓦礫を撤去したのち、盛土をして公園として整備したため、公園の下の一部には被爆当時の建物の基礎等が今も残っており、最近になっても当時の民家や道路の跡などが見つかっています。

ここで暮らしていたのは、今とかけ離れた存在ではなく、あくまでも今の自分と同じように日常を営んでいた人たち。今は公園という形で表れていますが、この下にはかつての日々の生活、人々の記憶が埋まっています。

そして、園内とその周辺には、慰霊のための石碑や塔、被爆の痕跡、供養塔など77もの(ガイドブックを参考)モニュメントが存在しています。90分という時間の中で可能な限り案内していただきます。

原爆ドーム

待ち合わせ場所から少し移動し、川沿い(元安川)の原爆ドーム正面に立って解説してくれました。

原爆ドームは、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は 「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。

設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建で、正面中央部分に5 階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。その頃の広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、川面に映えるモダンな美しさ とあいまって広島名所の一つに数えられていました。

原爆ドーム | ひろしま公式観光サイト Dive! Hiroshima

こうしてまじまじと建物の構造について見たのは初めてです。

建物の中心にある楕円形ドームは原爆ドームの象徴でもありますが、この下は階段室であり、吹抜け空間でした。原爆は建物から南東方向約160m離れた上空で炸裂。ほぼ真上から爆風が吹いたことで、当時5階建ての中央部は原型をとどめています。

一方、一部鉄骨を用いたレンガ造りの南側の建物(写真の右側)はほとんどが破壊されていることがわかります。これほどの至近距離から爆風そして熱線による火災が生じたにもかかわらず、残っている壁面もあり、ここから爆風の方向、被害の状況を想像できるということでした。

建物の下には今でも瓦礫がそのままの状態。また、ドーム下の内側には所々に当時のものではない鉄骨が見えます。これは補修した壁が倒壊しないよう支えているもの。

1歳のときに被爆し、白血病で亡くなった楮山(カジヤマ)ヒロ子さん(当時16歳)が亡くなるまでに残した日記がきっかけとなり、保存運動が行われ、戦争遺構として保存することが決定してから、これまでに4度の保存工事を実施し、今に至ります。

公園化、観光地化することに賛否あると思いますが、多くの人が訪れることができ、考えるきっかけを与え続けている原爆ドーム、こうなるまでに様々な出来事を通じて力を尽くしてくれた人々がいることを改めて実感。

次の場所へ向かいました。

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