日系人の歴史が学べる施設(1)

orangeoor18

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祖母と結婚する前にカナダで暮らしていた祖父は、戦後に家族とは離れ単身で日本に戻ってきました。

日本に戻る前は戦時中の収容所で生活をしていたとのことですが、当時の暮らしや帰国までの経緯について知っているのは本人のみ。

妻(祖母)や子どもたち(私の父も含む)にはほとんど語ることはなかったそうです。

ネットで調べたり親戚が調べて送ってくれる資料に目を通したりする中で、戦時中の日系人の生活に関してわかっているのは以下のようなこと。

・真珠湾攻撃以降、日系人(たとえカナダ生まれの二世であっても)は敵性外国人としてみなされた

・家や土地も含めた財産は全て没収された

・祖父一家は戦時中ブリティッシュ・コロンビア州の内陸に位置する収容所に抑留された

・祖父はオンタリオ州の捕虜収容所に移送された

・戦争が終わる頃には「日本に還る、または、カナダ東部に移動して定住」という選択しかなかった
(元々多くの日系人が暮らしていた西海岸へ戻るという選択肢は残されていなかった)

あくまでも現地でどんな扱いをされたのか。という視点のみ。本当に断片的にしか知りません。

そもそもなぜ祖父一家は海外へ移住したのか?日系人とは?など根本的なところで疑問に思うこともあったので、これらを知るために神奈川県横浜市にある海外移住資料館を見学しました。

 海外移住資料館
www.jica.go.jp  

館内は無料で見学可能。設立20周年を記念して今年の4月にリニューアルされたそうです。

戦時中の日系人

日本人の海外移住は1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれたのが始まり。そこから時系列に沿ったもの、またテーマ別に写真や解説パネルが展示されています。

日本人の海外移住の歴史は深く、様々な出来事の積み重ねによって今があるということを改めて感じました。

海外移住は、日系人の数が圧倒的に多いブラジルのイメージが強いですが、最初に集団で海外に移ったのは、ハワイと北米の西海岸だったようです。(新しい知識や技術を学び取るために渡航した学生や出稼ぎ労働者が年々増えていった)

その後、各地に日本人の移住が広がっていきましたが、排斥運動や戦争を巡る壮絶な争い事など、苦労、葛藤があったのが日系人の生活です。

歴史上には、勝ち組・負け組の語源に関連するブラジルの「勝ち負け抗争」や他国の兵士と結婚して海を渡った「戦争花嫁」などの重要な出来事がありましたが、一つ一つていねいに解説していたり、館内の各所に設置されている日系人へのインタビュー映像が印象的でした。

そして、その展示スペースの中央に置かれていたのが、戦時中の強制収容を解説するテーブル。今回のリニューアルで新設されたようです。

戦後になると、アメリカ合衆国では、戦時の強制立ち退き・強制収容に対する補償を求める運動が展開された。それは「リドレス」と呼ばれ、「過ちを正す」ことを意味する。

この社会運動が実り、1988年に市民的自由法が成立した。強制収容された日系人に対する金銭的な補償に加えて、大統領・連邦議会からの正式な謝罪と、人種差別を無くすための社会教育のための基金が創設された。補償の対象には「不忠誠」とされた人びと、日本に送還された人びとも含まれていた。さらに、アメリカの強制収容所に連行された日系ペルー人などラテンアメリカの日系人に対しても不十分ながら一部補償が後に認められた。

カナダでも同様の動きがあり、やはり1988年に政府による謝罪と補償が決定した。人種差別が完全に解消されたわけではないが、強制収容に対する謝罪と補償、そしてその後の人権教育を通じて、差別の解消に向けて新たな一歩が踏み出されたといえる。

海外移住資料館「強制収容に対する補償」

このリドレス運動は1970年から始まったと言われていますが、多くの日系人は苦しんだ過去の体験について語ることはなかったようです。

それでも、強制収容を経験していない日系三世の関心が高まったことや日系アメリカ人議員が選出されたことなど、複数の要因によって社会的な影響を高めていきました。

「1988年に市民的自由法が成立」となっていますが、祖父が亡くなったのはちょうどこの頃です。

祖父はこの法律が認められたことを見届けられた?この運動をどう見ていた?今となっては知り得ないことばかりですが、もし日本から見守っていたのだとしても、本人なりに思うところがきっとあったはずだと思います。

知るほど疑問は浮かんできますが、自分なりに調べてみたいと思います。

資料館の別コーナーについては引き続き。

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