広島の原爆投下を伝え続ける校舎(2)

orangeoor18

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約2年半前、広島市を訪れた際に行けずじまいだった、袋町(ふくろまち)小学校(当時は袋町国民学校)。

ここは原爆投下によって多くの児童、教職員が犠牲になった小学校。校舎の内部は破壊され、様々な備品が焼き尽くされた状態でありながらも、鉄筋コンクリートで造られた地上3階地下1階の西校舎はかろうじて原形を留めました。

現在は校舎を保存し、原爆の恐ろしさ、この学校で起きたことを後世に伝える「袋町小学校平和資料館」が運営されています。

 広島の原爆投下を伝え続ける校舎(1) by orangeoor18
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壁面に書かれた文字

館内の1階から地下階、2階へ続く階段の壁面にある展示物。黒く塗られた壁にはたくさんの文字が書かれています。

これは伝言を目的として当時ここで過ごしていた人たちが書いたもの。被爆後は救護所として活用され、多くの人にとっての避難先でもあったこの学校は家族などの安否を知るためには重要な場所でした。

建物が燃えた際に飛んだ煤(すす)によって黒くなった壁面に学校のチョークで文字を書いて使っていたとのこと。

現在の災害伝言板のように、自分の居場所や被害状況を身内に伝えるため書き残したり、消息不明な家族を探すために呼びかけたり、また、学校の先生方が情報のやりとりのために使われていたこともわかっています。

所々、読めない部分もありますが、先生の名前や各々が書いた当時の状況が確認できます。

再開後の学校

救護所として活用された期間を経て、1946年(昭和21年)6月に学校を再開。

地域住民の協力を受け、集まった児童37名で授業が始まりましたが、教材や設備は揃っておらず、再開当初は焼け残った板に墨を塗って黒板代わりに使用していたといいます。

物資難だった状況下でも、何とか復活させようという思いによる各々の努力や工夫が、今の教育へとつながっているのだと思います。

どんな思いで暮らしていたのか。
生活することすらままならない過酷な状況で学校生活はどんな存在だったのか。

児童の中には自分自身が被爆していたり、身寄りを亡くした子もいます。ここではあまり多くは語られていませんが、原爆によって大きく変えられた人生が児童それぞれにあるのだと思います。

再開してからは補修を行いながら、1999年(平成11年)まで校舎として利用しましたが、現在の校舎へと建て替えることに。

その際、漆喰を剥がした壁に伝言文字の跡が残っていること(チョークや煤は漆喰に吸収されながらも、文字の跡は残っていた)
を確認し、現在のような当時の伝言板を復元した展示物として残すことになりました。

その他にも被爆した扉、爆風で吹き飛ばされた太鼓といったものなど、被害を受けながら残された備品やパネルなどが館内に展示されています。

展示物を見学し、外に出ようとしたところ、ちょうど管理人さんが戻られたので、少し話を聴くことができました。

感覚的には何度も見たことのある、原爆投下後の中心地を写した白黒写真(現在の原爆ドームを中心に市内の被害状況を把握できる写真)が館内の入り口にも展示されているのですが、それを指して

「これは原爆投下直後の写真ではないんです。」
という説明を受けてどういうことか理解できませんでした。

「原爆投下の約1ヶ月後にとてつもない台風があったのだけれど、これはその被害を受けた後の写真。今の若い人はほとんど知らないかもしれない。」

枕崎台風は,17日の14時35分ごろ九州南部に当たる枕崎付近に上陸,九州を横断,佐田岬,伊予灘,広島を襲い,米子,松江を荒らして18日朝,能登半島の西側から日本海に抜け,新潟の北から東北地方へ再上陸して太平洋に抜けた。

昭和20年9月『枕崎台風』 | 広島県

当時、復興を計画していた矢先の出来事であり、まだ十分な対策をとることは難しい中で発生した自然災害。市内にも大きな被害が及んだことで後の広島に影響を与えた出来事ではあるものの、あまり語られることはなく、実際知りませんでした。

語られている出来事の外にはまだ語られていない(知らない)出来事が隠れているかもしれませんし、自分が思っている以上に複雑です。

「またいつでも来てください。」

都合により、本当にわずかな時間しか話すことができなかったので、改めて訪問してみたいと思います。今回は一人でしたが、子どもと一緒に訪れることで新たな発見があるのかもしれません。

ここから平和記念公園へ向かいました。

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