【シリーズ・この人に聞く!第8回】スポーツコメンテーター 奥野史子さんが語る よい指導者との出会い

kodonara

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今回は、元シンクロナイズドスイミング選手で、引退後はスポーツコメンテーターとしてテレビ等で活躍し、現在は3歳の女の子と7月に出産したばかりの男の子のお母さんとして子育てに奮闘中の奥野史子さん。1992年バルセロナオリンピックの銅メダリストとして一躍知名度がアップ。1994年世界選手権で披露した「夜叉の舞」の演技では、それまで笑顔のみのシンクロ演技で怒りや苦しみ、悲しみを表現。史上初の芸術点オール10点満点を獲得して話題になった。こうした数々の演技を共に作り上げてきた指導者との出会い、メダリストになるまでの道程、ご自身の子育てを奥野さんに語っていただきました。

奥野 史子(おくの ふみこ)

1972年生まれ、京都市出身。4歳の時、二人の姉に続いて「京都踏水会」に入り、小1からシンクロナイズドスイミングコースに通う。中学からは大阪の「井村シンクロクラブ」に入門。高校は推薦で大阪の四天王寺高校に入学。高校時代はシンクロが正式種目となった初めての国体に出場して優勝。卒業後は同志社大学へ進学。大学2年の時、バルセロナオリンピックに出場。シンクロナイズドスイミングのソロとデュエットで銅メダル(3位 )を獲得。1994年の世界選手権ローマ大会で、日本人初の銀メダル(2位)を獲得する。95年に現役選手生活引退後はスポーツコメンテーターとして活躍。また、同志社大学大学院総合政策科学研究学科修士課程に入学。 2000年〜2002年にはラスベガスの「シルク・ド・ソレイユ」の水中ショウ「O(オー)」に日本人として初めて出演。2002年に陸上100m日本代表選手・朝原宣治氏と結婚、翌年に女の子を出産。今年7月に男の子を出産し、現在は育児休業中

 奥野史子 / Fumiko Okuno 公式サイト
www.pacvoice.com  

弱音を吐かない強さで"できない"とは言わなかった。

――シンクロは習い事としては珍しいですが、始めたきっかけは何だったのですか?

私は三人姉妹の末っ子で、一番上の姉が喘息気味で水泳を始めました。それが「京都踏水会」(以下、踏水会)というクラブで、競泳やシンクロのコースがありまして。姉がシンクロコースに移った理由は分からないのですが、二番目の姉もシンクロを始め、私も“小学校に入ったらシンクロをやるのは当たり前”という感じでした。幼稚園年少組からスイミングに通い始め、小1からシンクロを始めました。踏水会には京都市内からシンクロをやりたい子が集まっているクラブで、京都出身のオリンピック選手は、ほとんど踏水会出身です。

――奥野さんはもともと水泳の素質もあって泳ぎがうまかったように思いますが、いかがですか?

いえいえ、レベル的には普通でした。小5になって週1回、井村雅代先生(元シンクロナイズドスイミング日本代表ヘッドコーチ)が踏水会に指導に来るようになって、井村先生に見ていただくと“ポン”と魔法にかけられたようにうまくなった。他の指導者がよくないということではなくて、井村先生が私に合っていたんだと思います。小3から1日2、3時間、休日は丸一日練習してたので、そういう日々のトレーニングも前提にありますが、小学生ながら“指導者でこんなにも違うのか”と思いましたね。

――井村先生の指導は厳しかったのですか?

他の指導者に比べるとかなり厳しかった上、特に私は厳しくされていました。負けず嫌いだし、甘い言葉をかけても調子に乗るだけだと、性格を見抜いていたんだと思います(笑)。実際、先生にダメと言われるほど、自分に腹が立って。どんなに苦しいルーティン・メニューでも「もうちょっと練習したらできるようになるから、このままやります」と、絶対に「できない」とは言いませんでした。

――弱音を吐かない性質も見抜いていたわけですね(笑)。辞めたいと思うことはなかったですか?

辞めることは考えなかったですね。シンクロを純粋に楽しんでいました。どんどん上手になって、そのスピードも早かった時期でしたので。練習はしんどいし、学校の友達とは遊べなかったですけれど。でも、たった一度だけ、中1の時に本気で辞めようと思ったことがありました。指導者や仲間を信頼できなくなるような人間関係が見えてしまったことがあって。そのとき、1週間練習に行かなかった。そうしたら、体が干からびたように感じて。結局、誤解も解けて戻りました。その時に私にとって「水」、「シンクロ」というものは、なくてはならないものだと分かったのです。

――それからは迷いがなくなって、シンクロに没頭された……。

もちろん、きつい練習のくり返しで辞めたくなったこともありました。でも、ここまでやってきたことを自ら放棄するのは許せなかった。それに自分に合うものがせっかく見つかったのだから、それをやり遂げたいと思っていましたね。

――練習がハードで一日のほとんどを占めていたのに、勉強時間はどのように確保していたのですか?

中学時代は地元の公立校に通いながら、大阪の「井村シンクロクラブ」に行くようになりまして。練習ばかりで本当に時間がなかったので、宿題とか最低限のことをやるだけで精いっぱい。大阪に通う電車の中で宿題をしたり、短時間で効率良くやっていました。そもそも成績で5をとろうなんて思っていなかったですし(笑)、そこで自分をアピールする必要もないだろう!!と割り切っていました。

先生と出会って世界の舞台が近くなった

――世界とかオリンピックの桧舞台を意識するようになったのはいつごろですか?

1992年バルセロナオリンピックのソロで銅メダルを獲得。表彰式後の奥野さん

1992年バルセロナオリンピックのソロで銅メダルを獲得。表彰式後の奥野さん

小5で井村先生に出会って、急激に世界が近くなりました。ちょうどロサンゼルスオリンピックの1984年で、井村先生はその年から正式種目になったシンクロのコーチを務めていました。オリンピック選手の練習を見る機会もあって、自分にもその舞台にたてる可能性があることを知りました。小学校の卒業文集にも「オリンピック選手になりたい」と書きましたね。体力や感覚的なものが急激に伸びる9、10歳から高学年が、スポーツの習い事のゴールデンエイジといわれていますが、ちょうどその時期に良い指導者と出会えたのは本当に大きかったですね。

――“世界”や“オリンピック”という夢を実現できたのは、心から信頼できる指導者との出会いのおかげだと?

中2の時、初めて海外遠征でスペインのマドリッドに行きました。「6年後に行われるバルセロナオリンピックの会場はここです」と案内してもらった時、古いコロシアムの外観だけがあって「ここでオリンピックをやるんだ」と意識するようになりました。そして、そこで開催された大会に出場し、いきなり優勝したんですね。採点競技というのは、海外で成績を残すと国内での見られ方が急に変わる。それで階段を一気に駆け上がるように、国内での評価も上がっていきました。あとは“井村先生が目をかけてる子”ということで、まわりの印象も強かったというのもあります。そういう意味でもラッキーでした。

――初優勝を飾ったバルセロナで6年後、本当にオリンピックのメダルを獲ったのですから、なんだかドラマチックですね。

当時の私はジュニアでトップというだけで、自分が強化選手に入れるなんて思ってもいませんでしたが、今となっては何かがつながっていたのかなと思います。いろんなものを見たり、人に出会ったり、チャンスが常にあった。それを見逃さず、常に自分の心にインプットしてきたことが大きかったと思います。

――高校に入ってからも国際大会で成績を残されていますが、ひたすらオリンピックを目指して……という感じだったんですか?

オリンピックばかり注目されますが、他にもワールドカップや世界選手権などの大会があって、それをこなすだけで精いっぱい。オリンピックのことを本気で考えるようになったのは前の年、大学1年の頃ですね。

――日本では特にシンクロはメダルの期待度が高い種目なので、やはりプレッシャーが相当掛かったのでは?

オリンピック前は練習だけで1日10時間以上泳いでいましたし、それ以外にもミーティングやウェイトトレーニング、ダンスのレッスンなど、こなすメニューが多すぎて、実はプレッシャーを感じる暇もありませんでした。“まわりの期待なんて知ったぁこっちゃない”と(笑)。それが逆によかったのでしょう。オリンピックの年はものすごく練習しましたが、あれぐらいやらないと、あの舞台で普通の演技はできないと身をもって知りました。

――結果、ソロとデュエットで銅メダルを獲得。結果には満足でしたか?金を獲れずに悔しかった?

シンクロは天候に影響を受けるものではないし、一か八かみたいな世界ではないんですね。もちろん金メダルが獲れれば一番うれしいですが、採点競技の場合、オリンピック前の大会で良い成績だったとか、そういうことがジャッジに入っている。だから、突然金メダルが獲れるということはあり得ません。銅は予想通り、もしかしたら銀かも…と期待をしていました。

1994年の世界選手権で銀メダル獲得。観客を総立ちにした「夜叉の舞」
1994年の世界選手権で銀メダル獲得。観客を総立ちにした「夜叉の舞」

子どもが負けた時にどんな言葉をかけられるか

――小1からシンクロを続けてきて、ご両親はどんなふうにサポートしてくれましたか?

アテネオリンピックの時の家族写真。“父親がオリンピックに出場する姿を見せたい”と長女を連れて行った

アテネオリンピックの時の家族写真。“父親がオリンピックに出場する姿を見せたい”と長女を連れて行った

父はよく“辞めろ”と言っていました。うちは普通のサラリーマン家庭なので、子供3人がシンクロをやるのは大変だったし、シンクロを続けた所でどうなるんだという思いもあったようです。試合も見に来なかったですが、引退を決めた時に黙って肩を叩いてくれました。後になって、父なりに応援してくれていたと気づきました。母は競技用の水着を何枚も徹夜で仕上げてくれたり、いろんな面で支えてくれました。父の実家である呉服屋を手伝って、海外遠征費用を出してくれていたそうです。辞めてから全部聞いて「そうやったんや」と。

――今、3歳のお嬢さんがいらっしゃいますが、母親として心がけていることは?

あえて「型にはめる」こと。挨拶、脱いだ靴を揃える、うがいや手洗いをする…そのやり方を教えてあげて“型にはめる”。小さい時にその“型”を教えないと、いきなり教えても分からないと思うんです。

――ご主人もスポーツ選手ですが、お子さんにこう育って欲しいという思いはありますか?

ああなりたい、こうしたいという「夢」や「欲求」を持って欲しいだけです。何か得意なものがあって、その道で生きていくというなら、どんなことでも応援したいと思います。

――子どもが自分のやりたいことを見つけるために、親ができることはあると思いますか?

ある程度は親がきっかけを作ってあげるべきだと思っています。大切なのは親が一緒になって楽しむこと。子どもは親が目を輝かせてやっていることを感じ取ります。いろいろな体験をさせてあげる中で、子どもが食いつく瞬間があるはずです。ただ、その子に合う、合わないを見極めることも必要です。引退後、各地でシンクロの入門教室を開催しましたが、「本当にこの子はやりたいのだろうか?」と思うほど、死んだ目をした子がいました。やらされている状況が続くと進歩しませんし、第一に達成感が得られません。

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