弱冠25歳にして今夏4度目パラリンピック出場のスイマー、山田拓朗選手。3月のリオ・デ・ジャネイロパラリンピック派遣選手選考戦で、50メートル、100メートルの自由形で派遣標準記録を突破。メダル獲得へ向け4度目の挑戦が熱く注目を浴びる。左ひじの先がうまれつきない左先天性前腕亡失だが、ハンディを感じさせない泳ぎで自己新記録を目指す。世界の頂点を目指す山田選手の意気込みを伺いました。
山田 拓朗(やまだ たくろう)
1991年4月12日生まれ。兵庫県出身。株式会社NTTドコモ人事部厚生担当。3歳からスイミングスクールへ通い始め、小学3年生から選手コースに。2003年パラ水泳の国内最高峰「ジャパンパラ競技大会」に初出場し、4種目中3種目で優勝、2種目で大会新記録を樹立。2004年13歳で史上最年少としてアテネパラリンピックに出場。2008年北京パラリンピックに出場し、100m自由形5位入賞。400m自由形、200m個人メドレーでアジア新記録を樹立。2010年筑波大学へ進学し水泳部所属。2012年ロンドンパラリンピックに出場し、50m自由形で4位入賞。2014年NTTドコモに入社。「アジアパラ競技大会」に出場し、50m自由形、100m自由形、200m個人メドレーで金、100m平泳ぎ、100mバタフライ、400m自由形で銀と、計6個のメダルを獲得。2015年世界選手権に出場し、50m自由形で銀メダルを獲得。2016年リオ・デ・ジャネイロパラリンピック出場内定。
サッカーより水泳が性格に合っていた
――弱冠25歳で4回目のパラリンピック出場という快挙は史上初です。子ども時代のことをまずお話し頂けますか?
3歳から地元(兵庫県)のスイミングスクールへ通い始めました。自分では覚えていませんが、水が苦手でシャワーの水が顔に掛かるだけ大泣きしていたそうです。スイミングスクールは頑張れば進級してワッペンもらえるのがうれしかったですし、新しい泳ぎを覚えるのも早かったので楽しかったですし、気づけば泳ぐのが大好きになっていました。
――お母様が「できないことはない」と育てられたエピソードも何かで読ませて頂きました。こんなこともできる!という体験の積み重ねが自信につながった?
小学校時代は紐靴を器用に結びましたし、掃除の時間になれば蛇口に雑巾を引っかけて絞ったり。右腕だけですが、左腕が使えないハンディを感じることはありませんでした。基本的に何でもできますし、それほど困ることはありませんでした。
――学校やスイミングスクール、サッカークラブなど、どこに居ても負けん気を発揮して誰よりも努力してこられたのでは?
負けん気が強いわけではありませんが、新しい世界に飛びこみたい、もっと先に行きたい…という気持ちはあったかもしれません。幼稚園卒園の頃には4泳法できるようになっていました。
――水泳以外には、何かスポーツをされていたのですか?
地元では有名な強豪サッカークラブにも入っていました。そのチームのコーチが体育の先生をするという幼稚園に通っていたのですが、僕はサッカーに全然興味が無く、コンタクトスポーツも性格的に好きではなかった。水泳の方が僕の性格に合っていたのでしょうね。基本的に皆で何かをするというのが好きではないのかもしれませんね。
史上最年少中1でパラリンピック出場、高2で北京へ
――スイミングスクールの他に障がい者の水泳チームにも所属されていました。そこでパラリンピックを目指すキッカケは?
小学3年生の時に行われたシドニーパラリンピックでチームの先輩(視覚障害クラスの酒井喜和選手)が優勝して金メダルを持って帰ってきてくれました。金メダルは大きくて、重くて、カッコよくて…。「自分も出てみたい。決勝に残ってメダルを取りたい」という気持ちが強くなりました。2004年のアテネパラリンピックに初めて出場し、一つ夢が叶いました。
――想いが行動につながったのですね。学校の成績もかなり優秀でいらした上で、水泳の練習量は年々ハードではありませんでしたか?
練習量の細かなことは覚えていませんが、上級生になるにつれ段々増えていった。僕はスポーツも勉強も好きでした。中学では水泳部がなかったので部活動はせずに放課後は帰宅してすぐスイミングスクールでの練習に。その後、受験して地元の高校へ進学、学校の水泳部に所属しながらスイミングスクールでも練習。学校終わって遊ぶ…というのがまずなかったです。遠征もあって学校を休むこともありましたが、たまに試合だけ水泳部として出場したりしていました。
――高2で北京パラリンピックを迎えて、その後筑波大学へ進学されました。学業と両立させる意思の強さが感じられますね。
高校は進学校で入学当初は一般受験で大学へ行くつもりでしたが、遠征などがあるとぽっかり抜けてしまって戻ると浦島太郎状態に(笑)。勉強についていくのが必死で…。ならば水泳で発揮できる力も加えて…と、筑波大学はAO入試で進学しました。
――アテネ、北京、ロンドン…今夏リオでのパラリンピック。4回も出場できるのは快挙です。そのモチベーションを教えてください。
小さな頃から選手コースでトレーニングできる環境があり、周りは皆オリンピックを目指す仲間の中で、自然と僕はパラリンピックを目指すようになりました。選手コースの同年代の子と比べても速く泳げたし、うまいという自覚もあった。より速く泳げるようになりたいという思いが強かったのです。
すべて自分で選び、決めてきたという自信
――ご家族の応援が大きかったのでは…と思いますが、ご両親をはじめご兄弟の存在は常に協力的でしたか?
基本的に、母はいつも僕の意思を尊重してくれて、小さな頃は様々な機会を与えてくれました。そろばん塾は「3級合格したら辞めてもいい」とか、サッカーチームは「1年通ったら辞めてもいい」というゴールの設定をしてくれました。母はスイミングスクールの練習も、毎回見に来てくれましたし、試合になると父も一緒にビデオカメラに映像を収めて後で作戦会議。1歳違いの弟とは筑波大学の水泳部までずっと一緒でした。
――ご家族の結束も強いですね。自信につながるだけの練習量をこなされ、水泳漬けの日々を改めて振り返ると一番励みにしてきた気持ちは?
あんまり練習は好きじゃないのですが、試合に出るのは好きです。4年間パラリンピック出場のため厳しい練習を超えて「もうこんな鍛錬はできないから、これが最後の晴れ舞台だ」と思って臨んでも、終了すると「やっぱりもう一度この場に戻ってこよう」と思うんですね。普通の大会と絶対的に違うのは、皆がこの舞台でメダルを取るために4年間練習を重ねてきていて、真剣度がより強いのを感じています。
――スイミングスクールへ通っても水泳が好きになれない子もいます。そんなお子さんのいる親へ何かアドバイスをお願いできますか?
幼少の頃は、嫌なら辞めたほうがいいし、他に好きなことを見つけられる機会をつくったほうがいい。水泳が好きでなくても、他に好きなことに出会えるか?です。人からやらされていると、ツライことがあった時に乗り切れません。僕の場合、自分が納得しないと人から何を言われてもやらないところもある。そういう意思の強さがないと、厳しい練習は乗り越えられません。小さい頃の僕は気分屋でしたし、練習をやりたくなかったら全然気持ちが入らなくて怒られる機会は多かった。2時間の練習で最初の20分泳いで、後1時間40分はずっと叱られていたこともありました。ガムシャラでなく、今日やらなくても明日はやろう、といったメリハリはあっていい。チームメイトには「おまえが毎日マジメに練習をしていたら、とっくに世界一になっている」と言われたこともあります(笑)。
――自分でパワーを調整するのも意思が必要ですね。ここまで成長するにはコーチの存在も大きかったのでは?今回金メダル獲得に向けて、その意気込みを聞かせてください。
ジュニアの頃は正直言って自分がいいなぁと思うコーチもいれば、いやだなぁと思う指導者もいました。スクールの頃は指導者のことを選びようがないので耐えて練習した頃もありましたが、モチベーションや記録に必ずコーチとの相性は出ます。現在9月のリオへ向けて高城直基コーチに指導して頂いています。高城コーチは、2012年ロンドン五輪の銅メダリスト(200メートル平泳ぎ)立石諒(ミキハウス)選手を指導されているコーチ。日本を代表する水泳指導者です。
僕は必ず50メートル自由形を25秒台でメダルを取るつもりです。自己ベストは4年前ロンドンパラリンピック決勝での26秒22。それを塗り替えるために「泳ぎ始めの部分」でのタイムロスを無くす練習をしています。最初の15メートル区間が勝負。他の選手と並ぶことができれば、25秒台は100%出ます。高城コーチは僕の意思を尊重してくれる方で相性はピッタリです。金メダルを狙います。
編集後記
――ありがとうございました!毎日ストイックにコツコツとたゆまぬ努力を積み重ねてこられたのかと思いきや「今日は乗らない~と思ったらあきらめて翌日がんばる!」という切り替えをされているとか。そのメリハリこそがバネになるのですね!25歳という若さで4度目のパラリンピック出場。まだまだ今後のメダルも期待大の山田選手。9月のリオ・デ・ジャネイロパラリンピックご活躍を心から応援しています!
取材・文/マザール あべみちこ
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