【シリーズ・この人に聞く!第16回】オリンピック女子マラソンメダリスト有森裕子さん

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華奢な体のどこにそのエネルギーを蓄えているのか。42.195キロのマラソンレースで常に第一線を走り続けてきた有森裕子選手。辛くて厳しいマラソンのイメージを健康的でポジティブなスポーツに変えた第一人者です。2月18日の東京マラソンでアクシデントに見舞われながらも有終の美を飾りました。これまでとこらからのことをうかがってみました。

有森 裕子(ありもり ゆうこ)

1966年岡山県生まれ。
就実高校、日本体育大学を卒業して、(株)リクルート入社。バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの女子マラソンでは銀メダル、銅メダルを獲得。1998年NPO「ハート・オブ・ゴールド」設立、代表就任。2002年4月アスリートのマネジメント会社「ライツ」設立、取締役就任。現在、国連人口基金親善大使、日本陸連理事、日本陸連女性委員会特別委員、国際陸連(IAAF)女性委員、米国コロラド州ボルダー在住。

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高校生になってから走る楽しさを知った

――2月18日の東京マラソン、素晴らしい走りで感動しました。有森さんはリクルート時代から注目されてきましたが、小さい頃から走るのはお好きだったのですか?

好きになったのは随分あとですが、小学校時代はリレーも補欠選手くらいで、中より上くらいのレベル。まあまあ得意。好きだったものは体育、美術、家庭科、音楽でした。でも音楽の楽器は何かを見ながらやることが苦手だったんですね、不器用なものでしたから。机にしがみついて何かを覚えなくちゃならなかったり、そういう勉強はダメでしたね。

――習い事なんかはされていましたか、スポーツ系は何か?

1歳頃の赤ちゃん時代

1歳頃の赤ちゃん時代

オルガンは幼稚園まで習っていましたが、皆が遊んでいるのに、何で自分だけオルガン弾かなくちゃならないの?って(笑)、辞めてしまった。そろばんやお習字もやっていました。スポーツは、小学校時代にポートボールを。父がコーチをやっていたので。中学になってからはバスケット部。攻めはダメでしたが、守りはしつこかったので強かった。相手チームの得点王にぴったり張り付いて、いかに点を入れさせないかが使命でした。この3年間で、ああ私ってチームプレーは向いていないなぁ~って思ったんです。

――中学時代に走り出したわけではなかったのは、意外でした。

部活はバスケでしたが、運動会で800メートル走に出場し3年連続優勝。誰も出たがらない種目でしたが、人と同じことをしても自信につながらないと思って、自ら進んでやってみた。個人の力で頑張って結果が出せたので、私にはこのほうが向いているなと。で、高校は陸上部に入ることにしました。

――高校時代は陸上をやってハッピーで?辛いと思うことはありませんでした?

辛いことばっかりでしたね(笑)。故障も人一倍でしたし。整形外科へ通うのと学校行くのが同じくらいみたいな。土日は競技会、ロードレースなど目白押しで。その頃、女子の中距離マラソンがやっと注目されだしたのはラッキーでした。ただ、食生活指導もあまり情報や知識がなかったので鉄欠乏性貧血がすごかった。真夏に5枚重ね着して汗たくさんかいて朝晩走って、ミネラルとか鉄分も全部汗で出ちゃうのに、何も補給しなかった。秋はもっても、冬はスタミナがもたないわけです。高校時代の3年間は、貧血との闘いでした。

人の倍、辛抱することを力にしてきた

――大卒後にリクルートに入社されたのはどうして?

小学5年生の頃。顧問の先生に憧れて陸上部へ。決して速くなく、先生に認めてもらえるよう必死で努力した。頑張れるものとの出会いとなった

小学5年生の頃。顧問の先生に憧れて陸上部へ。決して速くなく、先生に認めてもらえるよう必死で努力した。頑張れるものとの出会いとなった

大卒で入れてくれる実業団のある会社ってあまり無かったなかで、まだクラブチームとしてできたばかりのリクルートが、そのころ何の実績も無い自分自身の、唯一“走りたい”という気持ちを受け入れてもらえる『枠』があった。同期の仲間はほとんど高卒で入社。リクルートの平成元年入社同期は700人という、当時の会社側の想像を上回る数でした。

――マラソンを選ばれたキッカケは何だったんでしょうか?

当時、増田明美さんとか有名でした。その当時マラソンはやりがいはありそうだけれど、悲壮感が漂っていた。それに対して、ソウルオリンピックで優勝したロザ・モタというポルトガルの選手がゴールした時は満面の笑顔。そんな爽快感を表したマラソンのゴールは今まで見たことがなかった。私は大学4年生で、テレビでそのシーンを見て、強烈に感動しました。マラソンって本当はどんなスポーツなんだろう?と知りたくなって興味がわきました。

――大卒でリクルートに入ってから、マラソンをするようになったということですね?

他に選択肢が無かった。スピードで勝負はできませんし。やればやっただけの結果がでるスポーツがマラソン。それでも初めての合宿では、先輩に付いていくのに精一杯。二回目の合宿でようやく付いていけました。我慢は苦じゃないんです。辛抱を力にしようと。

――「辛抱を力に」。それは何かをやり遂げようとする人にとって、勇気づけられる言葉ですね。

高校時代から前にしか人が走っておらず、自分は一番後ろで走っていた。実は一度も「頑張れ」と監督に言われたことがないんです。十分頑張っているのは皆にもわかっていたのでしょう。それがプツンと切れないように、いつも「有森、辛抱ぞ」と言われてきました(笑)。私は、人の倍以上我慢をしていればいつか人に追いつけるんだと。人が嫌がるものを好きになったり、人が悪条件と思うものを好条件と思えば、私にはそれがプラスに働く。それを力にしようと思ってきました。それだけが唯一、身にするための手段でしたね。

待つこと、見ること、信じること

――全国各地に講演に行かれ、今の子どもたちにも接する機会が多いと思います。子どもたちに感じることはありますか?

中学1年生。みんなが走りたがらない800mに自ら立候補。必死の練習で3年連続で1着に。

中学1年生。みんなが走りたがらない800mに自ら立候補。必死の練習で3年連続で1着に。

会社では全国3箇所で3泊4日のキッズキャンプというスポーツを通して子どもたちを育成するイベントを開催しています。「本物の人から本物を学ぶ」という理念です。全国の学校で講演もたくさん行っています。子どもは基本的に変わっていないと思うんです。問題があるのは大人。世の中や家庭、環境がものすごく変わってしまった。家庭という社会が崩れていると感じます。学校は、家庭の次にあるものですよね。一部の保護者には、それが間違って認識されているように思います。

――有森さんのご家庭はいかがでした?

母が父の数十倍厳しかった。父は温厚な高校教師でした。本当に悪いことすると、母は手もあげたし、怖かったですよ。子ども時代は嫌いでした。でも、怒られる意味はわかりました。「できることは誰でもする。部活ボケするな!」と言われていましたね。何であっても、自分で決めることがほとんど。自分で責任をもてた。親から何の押し付けもなかったからです。

――親御さんの教育方針のようなものはありましたか?

今になって思えば一番ありがたかったのは、見守ってくれたところ。もちろん私自身、失敗もありましたけれど、何も口出し手出しをせずに見守ってくれる存在でした。タイムを出すとか勝つということを母は気にすることはなくて、常に私の体の心配をしていましたね。だからといって「やめなさい」とは絶対に言いませんでしたが。引退は一番安堵していると思います。

――当たり前のことかもしれませんが、そういう姿勢は胸にしみますね。有森さんから読者の親御さんにメッセージをいただけますか。

とにかく「待つ」こと。愛情をもってその子の表情を「見守る」こと。そして「信じる」こと。親のスピードで引っ張ってしまうから、子どもの気持ちの速度が見えてない。知的障害者のオリンピックに私は関わっていますが、彼らから学ぶことはとても多い。持っている力を精一杯発揮できれば、それで十分素晴らしいことです。でも、1位を取るわが子が見たいという親の欲望で、1位になれないと「なんで勝てないの!」と言ってしまう。親のご機嫌を伺うような子どもができてしまう。親の自信がない。子どもは親の鏡ですから。大人がそういう自分に気づかないと、子どもは変わりません。

編集後記

――ありがとうございました。走っている時は涼しげで、ゴールも楽しげにされていた現役時代。同世代としていつも有森さんを応援してきたので、お会いできて光栄でした。一年のうち4分の3は日本で仕事をし、4分の1は本拠地で待つ旦那さんのもとへ帰るそうです。引退を誰よりも喜んでくれたのは、ひょっとして旦那さんかもしれませんね。ご夫婦で仲良く、これからの人生長距離戦を走ってくださいね。

取材・文/マザール あべみちこ

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