あなたは【傷痍軍人】を知っていますか?

Rinoue125R

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生まれ育った町には川を挟んで西側に区役所とデパートが2つ、東側にもデパートと駅と商店街があって、東西の繁華街を結ぶ通りは休日ともなると歩道が埋まるんじゃないかというくらいの人通りだった。バナナの叩き売りとか、ハブとマングースの対決、ヒヨコ釣りやオカヤドカリを売る屋台が並ぶのもその歩道は、まるでお祭りの縁日を思わせる雰囲気もあったのだが、その中にもう一人というか、もう一団、白い服を着てアコーディオンやハモニカで軍歌を奏でたり、あるいは義手や義足を外した手足で道に座って、白い募金箱を前に頭を垂れ続けていたりする人たちがいた。

写真で検索する画像にどうにも真が感じられないので描いてみたが…
写真で検索する画像にどうにも真が感じられないので描いてみたが…

ショーイグンジンという言葉を教えてくれたのは父だった。ショーイというのがどんな意味なのかは分からなくても、晒しのようにぺらぺらの白い布でつくった軍服のような衣服と、やはり白い軍帽(おそらくどちらも手製なのだろう)、あるいは白い浴衣にカーキ色の軍帽を被っている姿から、おおまかに想像することはできた。昔は兵隊さんだったけど、いまは乞食の人? と尋ねると、乞食ではないのだと言って、これを上げてきなさいと小銭を握らされた。

戦争からはすでに何十年も時間が経っていたが、ごく小さかった頃の記憶の中に登場する近所の3輪トラック運転手の小父さんは、夏でも革製の耳あて付きの帽子の耳の部分を上に跳ね上げて被っていて、聞いてみるとゼロ戦に乗っていた頃の飛行帽だと教えてくれた。時々忍び込んでは小さな水路でヤゴや川エビを採ったりしていた中学校のグラウンドの隅の崖には防空壕が残っていたし、自分が通っていた小学校は広大な工厰(軍所属の工場)の敷地の一角に建てられていて、2年生、3年生、5年生の教室は、煤けたようなガラスがぼろぼろに割れ、鉄骨がむき出しになった山形屋根の工場の列に面していた。当時の図書館は工厰の司令部か何かだったそうで、長崎に落とされた原爆の本当の目標がこの工場だったのだという話も教わった。平和の鐘のレプリカが、数年後、旧図書館跡地近くの公園の一角に届けられるまで、本当には信じていなかったが。

戦争が終わって25年から30年くらいの頃の記憶だ。

軍人がパレードする軍靴の音とか、歯が折れるほどの鉄拳制裁や海軍精神注入棒といったものはテレビドラマの中にしか残っていなかったが、町のそこかしこに戦争の記憶はナマのものとして生きていた。傷痍軍人の記憶は、もしも原爆が自分の町に投下されていたら、祖母や親戚のほとんどが消滅し、父と母が出会うこともなく、つまり自分が生まれることもなかったのだという考えよりもさらに生々しかった。

ある時、友人と遊んでいる時に、どうかした拍子に「傷痍軍人さんは乞食ではない」という話をしたら、真っ向から否定されたことがあった。国からちゃんとお金をもらっているのに、さらに物乞いをするなんてズルい奴らだという意見だった。当然、彼の周りの大人が彼に話して聞かせたことだったのだろう。

その後、父と散歩している時にやはり傷痍軍人さんがいたので、お金を上げてきたいと伝えると、今日は止めておけとたしなめられたこともあった。国からお金をもらっている悪い奴らだからなのかと訊くと、そうかもしれないし、そうでない人もいるかもしれない。ただ、本当の傷痍軍人なら恩給をもらっているわけで、物乞いをする必要はないだろうという話だった。

傷痍軍人として道で物乞いや音楽の演奏をしたりはしないものの、同じ町内には片足を失って、バイクのサイドカーのような大きさで、手回し式チェーン駆動の小さな車に、ヒギンスみたいな犬を抱いて乗っている厳つい表情の小父さんや、いつも松葉杖をついている小父さんも住んでいた。ふたりとも傷痍軍人だという話だった。車に乗っている小父さんは元将校だったそうで、いつも空気のバリアのようなものを発していたが、松葉杖の小父さんにも近づきがたい雰囲気があった。しかしこちらの小父さんは、どんな仕事をしているのか、何の用事があるのか分からないが、よく外を出歩いていて、銭湯で一緒になることもしばしばだった。

ある日、たまたま小父さんが松葉杖を倒してしまうところに出くわした。たぶんどこかの家の壁に杖を立てかけて、タバコでも吸おうとしていたのかもしれない。ちょうど自分が歩いていた目の前に松葉杖は倒れてきたので、思わず拾って手渡した。それからというもの、松葉杖の小父さんとは道で出会うと挨拶をするようになった。会話を交わした記憶はない。話をしたとしてもごく些細なことだったに違いない。でも挨拶はした。挨拶をするときには小父さんは少し目元で笑っていた。

友達と遊んでいる時にも松葉杖の小父さんとすれ違うと「コンニチハ」とやるもんだから、友達は怪訝な顔をして、「おまえ、いつからチ●バのや●ちゃんと友達になったんか?」とか言っていたが、あまり気にはしなかった。当時は近所の大人というものは、揃ってみんな恐い人ばかりだったから、たとえ「チ●バのや●ちゃん」でも優しそうなその小父さんのことが嫌いではなかったからだろう。

たぶん自分がまち中から郊外へ引っ越す少し前の頃だったか。その日も近所の友達と、線路に面した工事部のバラックに忍び込んで遊んでいた時だったと思う。工事部の敷地の向かい側は、戦後すぐに3坪もないような飲み屋が立ち並んだ飲み屋街で、その当時もこめかみに絆創膏を貼ったようなオバサンたちが、夕方になると店の開店準備でうろうろしたり、うるさい声でおしゃべりしているのがいつもの光景だった。

鉄道の工事部のバラックの周りに置かれた、何に使うのかも理解できない不思議な工具類を使って遊んでいた時、店と店の間にこんなドアがあったのかと思うほどの、半分朽ち果てたようなドアがバタンと開いて、中から「おおい、誰か扉を閉めてくれ」という声が聞こえてきた。ところがその日はオバサンたちの姿がない。ドアの中からは、「誰もいないのかの、閉めてくれんかの」と声が聞こえてくる。友達と顔を見合わせて、頷きあって、鉄網のフェンスを乗り越えると、バタンバタンしているドアの前に走った。

ドアの向こう側には、松葉杖の小父さんがベッドのようにも見える椅子に座っていた。開いたドアと同じほどしかない幅の屋内に見たのは、靴脱ぎもなく、いきなりの上がり框で50センチくらい高くなった1畳か2畳くらいのスペースで、その真ん中に据え付けた椅子に小父さんは座っていて、小父さんの周りは少しだけ散らかっていた。それより小父さんが座っている椅子がふかふかのクッションで、たぶんそれが小父さんの居場所であると同時に寝場所でもあるのだろうと思ったのを覚えている。突然のことで、いつものように挨拶もできず、ただ「閉めときますね」といってドアを閉めて友達と顔を見合わせた。

「びっくりしたなあ、チ●バのや●ちゃんがここに住んどるの、お前知っとったか?」知っていれば自分もこんなに驚くことはない。「しかしすごい家やなあ、いや家とは言えんのう」

そんなことを、たぶんドアを閉めたすぐ側で話したのだと思う。たぶん聞こえたに違いない。

それから以降、松葉杖の小父さんと町で出会ったという記憶が途絶えてしまう。たぶん自分が引っ越したからだと思うのだが、本当にそうであってほしいと思う。それ以後、傷痍軍人の姿を見ることがだんだん減っていったような気がする。まち中の人の流れも変わったからか、かつての歩道には復活した猿回しや地元野菜の出店が立つようになったせいか、傷痍軍人さんの居場所も移動した。最後に目にしたのは、高校を卒業する年に地下通路の交差点に座っていた1人だったか。(その日は雪の夕べだった)

最近になって、傷痍軍人と呼ばれる人たちの中に、戦傷の条件や国籍の問題から、日本軍の兵士や軍属として負傷したにも関わらず、補償を受けられなかった人たちがいることを知った。また、高齢化から傷痍軍人の団体が2年前に解散したこと、解散するにあたって最後の会長が「戦争がなく、新たな傷痍軍人は生まれなかった。私たちの代で解散できるのは喜ばしいこと」(The Huffington Post)と語ったことも知った。日本傷痍軍人会創立60周年記念式典での天皇陛下の言葉も読んでみた。

傷痍軍人さんは、戦争があったから傷痍軍人になった人たちです。手足を失い、視力を失い、体中にやけどを負い、たとえ国からの補償があっても、思うように働くこともできない苦しさの中で生きてきた人たちです。その補償すら得られない人たちも少なくなかったというのです。

自分は子供の頃、傷痍軍人さんを目にすることができました。いえ、ただ見る機会があったというだけ、お目にかかれただけというべきでしょう。しかし、自分が目にすることがなくなって、さらに30年以上も、傷痍軍人さんたちは世の中のどこかに生き続けていたというのです。自分の知らないところで。知ろうとしてこなかったことを棚に上げることはできませんが、あえて言いたいのはこのことです。自分が知っていた当時でも戦後25年~30年の時代だったと先に述べましたが、今年で戦後70年です。それだけの時間を、戦争によって負ったものを背負って生きてきた人たちがいる。その人達の人生がどんなものだったのか、想像することなしに、私たちは戦後を生き続けることを許されないということです。

 太平洋戦争開戦から72年 戦争で負傷した日本の傷痍軍人の今 | The Huffington Post 投稿日: 2013年12月08日 16時10分 JST
www.huffingtonpost.jp  
 「忘れられた皇軍兵士」 - Dailymotion動画
www.dailymotion.com  

最終更新:

コメント(2

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  • P

    pamapama

    いまから27~8年前のわたしが大学生の時、渋谷駅の前にもいた記憶があります。こちらのイラストとほぼ同じ姿だった(そのひとはぺたん、と座っていた)と思います。いま思えば当時もまだ「戦争」に触れる機会は多かった気がしますね。

    • R

      Rinoue125R

      言われてみれば、新宿駅の西口、東口でも見たのを思い出しました。高度成長期があってオイルショックの不況の時代があって、バブルがあって、バブルが崩壊して……。そんな世間の狂騒をあの人たちはどんな目で見てきたのでしょうかね。あのドアの家があった辺りは、飲み屋街もポルノ劇場も今はなくなって駐車場になっています。