戦争の記憶を風化させないための活動(1)

Rinoue125R

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父の話をしよう。

父は昭和が始まった数カ月後、福岡県の小倉市(現:北九州市)に生まれた。そして、平成が始まってから数年後、事故により他界した。ほぼ、昭和という時代をまるごと生きて、亡くなっていったわけだ。自分の父親ながら、頭脳明晰なひとであった。料理の上手なひとであった。魚であれ米であれ野菜であれ、目利きをさせればプロそのものであった。そしてビールをこよなく愛するひとであった。

昭和時代で365日まるごと備えた最初の年に誕生したひとだから、もちろん戦中派である。最近ではあまり聞かないが、「昭和一ケタ世代」のほぼ最年長でもある。昭和9年に小学校(尋常小学校)に入学し、中学校に進学したのは昭和15年だった。

日本が米英中蘭との間に太平洋戦争の火蓋を切ったのは、父が中学2年の12月8日のことである。ヨーロッパと中国大陸で戦われてきた大規模な戦争は、このときから実質的に2度目の「世界大戦」と呼ばれるようになる。緒戦は順風満帆のように見えた。とくに戦線を南へ東へどんどん拡大させて行く海軍の活躍は華々しかった。

ところで、当時の旧制中学は、現在の中学校と高等学校を合わせたような位置づけで、試験を受けて入学した。基本的には5年制だが、4年修了後に高等学校や大学予科(国立大学の教養課程のような位置づけの学校)に進学することもできた。

進学することもできたのだが、父の進路はそうならなかった。父が旧制中学4年を迎えたのは昭和19年。戦争は敗北への坂道を転がり落ちつつあった。

志願するものはこの場に残れ

ビールをのんで気持ちよくなった時に話してくれる、というわけではなかった。いつでも話すような話題ではなかったし、「戦争のことを教えて」と頼んでも、応えてくれないことの方が多かった。それに、いまにして思えば、父と自分の二人だけの時しか、父は戦争中のことを詳しくは話してくれなかった。

自分が小学生の時、中学生の時、思春期の頃は少し飛ばして、成人した後、何度か一緒に飲みに行ったとき。父は戦争中の話をしてくれた。

何度も繰り返し同じ話を聞いたものもある。それでも鮮明に覚えているのが、中学のある日の朝礼での出来事だ。

「国民が気持ちを引き締め戦争の勝利に向かって邁進せねばならぬ」といったいつもながらの校長の訓辞が行われた後、この日ばかりは、いつもとは違う言葉が待っていた。

それは、こんな話だった。

「わが中学校に在籍する有為なる諸君は、学業を修め、もってお国のために心身を捧げる覚悟を有していることと存ずる。されど、目下の戦局は我に利なく日に非。高等教育を受けんがために年月を費やす余裕はない。いまこそ、諸君らの国への赤心が求められているのである。さいわいにも、軍よりわが校に対して志願兵の要請が下された。軍の要請に応え、志願して国のために命を擲つ覚悟のあるものは、この後、この場に残れ。」

父は大きな目をさらに見開いて自分を制した。
2秒、3秒、5秒…。緊張の時間がよみがえったように思えた。

「そして、息が詰まるくらいの沈黙の中で、解散!っていう声が響いたんだ。」

この時、父が中学4年だとすると16歳。いまで言うところの高校1年生の少年に、学校を辞めて軍に入隊するように勧めたということだ。

何より恐ろしく思ったのは、「志願するものはこの場に残れ」という命令の出し方だ。
こんなことを言われたのでは、戦争に行きたくなくても、その場に残らざるを得ないだろう。

父に聞いた。「父さんはどうしたの?」

「もちろんその場に残ったさ。同級生たちもほとんど、たぶん全員残ったと思う。そしたら先生が、長男、ひとりっ子、家族を養わなければならぬ者は志願に及ばず、と言って朝礼は解散になった。熟考の上、改めて志願を募るという話だった。」

朝礼ではほとんど全員が志願という形だったが、実際に軍隊に入ったのはそれほど多くはなかったらしい。(半分以下、三分の一くらいだったと聞いたような記憶がある。)

しかし、父は軍隊に行った。父は次男だったし、当時は「お国のため」という考え方は絶対的だった。疑義を挟む余地などなかった。中学から帰って両親に話をしても、表向きには反対されることはなかったと父は言う。

「心の中でどう思っていたかは別だよ。もしも、世の中ががらっと変わって、お前が戦争に行くという話になったら、俺はお前を連れて逃げるだろうな。山の中だろうがどこだろうが。」

そして父は付け足した。

「まあ、お前も俺くらいの年齢になれば分かるだろうさ。俺のおふくろがどんな気持ちだったかとかな。」

小学生だった自分には、父や家族との逃避行というイメージの方が刺激的だった。食料や住居はどうやって確保する? 雪深い時期とか、木の実が採れない季節には何を食べればいいのかなあ? だからって畑なんか作ったらすぐにバレちゃうよね。官憲に見つからないようにするにはどうする? 八岐大蛇の話じゃないけど、山にこもった後、川にお箸なんかを流しただけでも、見つかっちゃうかもしれないから、ゴミ処理の問題も真剣にやらなきゃねとか。

不安とわくわくが一緒になったような不思議な興奮を覚えていた。

海に浮かぶ戦車のような兵器

その頃でこそ、戦争になったら山に逃げると話していた父だが、当時は立派に軍国少年だったらしい。志願して軍隊に入るからには、飛行機乗りになって敵艦を叩いて沈めたい。そのためには予科練(海軍の飛行学校)に入らなければ――。

しかし、父には飛行機乗りになるには致命的なマイナスポイントがあった。

近視なのである。

中学受験の勉強が原因と祖母は話していたが、父の視力はかなり悪かった。空戦では敵機をいち早く見つけ出すことが勝利への第一条件だ。海軍の飛行機乗りになるための試験には当然のごとく落第した。

それでも父は諦めず、「海軍がダメなら陸軍の飛行機乗りでも」と陸軍飛行学校の試験場の門を叩く。

「でも、目が悪いんだから、やっぱり受からないんじゃないの?」

父は視力検査の表のランドルト環の順番を暗記して、試験をパスしたのだという。でもすぐにバレてしまって試験官にどやし付けられ、結局落第。

このあたりの話は、もしかしたら『おじいちゃんの四方山話』的な演出が濃厚かもしれない。昔に聞いた話だから、自分の記憶の中での混濁もあるかもしれない。

しかし、ほぼ間違いない事実は、父が海軍と陸軍の飛行兵になるための試験を受けて落ちて、結果的には陸軍に入隊したということだ。
陸軍とは行っても陸軍でも歩兵ではなく、船に乗る兵隊だったというあたりが、父らしい。

「海を走る戦車のような船といえばいいのかのう。」

上陸用舟艇のようなものに装甲をほどこして砲塔を搭載した兵器だったと父は言う。

「しかし、そんな強い兵器じゃなかった。スピードも遅いし、だいいち数も多くなかったから、訓練すらあまりできなかった。」

入隊してしばらくの父の話は、自分の中でかなりカオスな状態になっている。先輩兵のいじめ、上官に可愛がられたこと、食事担当を長く務めたから訓練をさぼれたこと…。具体的にイメージできないために、話がシチューのようにとろけてしまっている。

致命的だったのは、話してくれている40代の父の姿から、父の話の中にいる10代の父をリアルに想像することができなかったことだ。そんなこと、当時は思いも寄らなかった。

それでも、聞き手だった小学生にも十分突き刺さってくる、ドキリとする言葉が父の口を突く。それは父の軍隊生活の後半を支配しているひとつのワード。
「特攻」だ。

特攻ではない特攻兵器

「ベニヤで作ったモーターボートに、爆雷を積んで敵艦に突っ込んでいくんだ。特攻といっても零戦なんかの飛行機だけじゃない。人間魚雷とか、人が操縦するロケット弾桜花とか、戦争の終わり頃にはほとんどの兵器が特攻のために造られていた。」

小学5年生の頃、夏休みのキャンプに行った山口県の漁村で、漁港の堤防の近くに小さな車庫のようなスペースがあって、そこにボロボロになった木製のボートがしまわれていた。地元の漁師さんがトッコウテイだぞと言っていた。ウソかホントか分からないが特攻艇のイメージは自分の中にあった。

父の話を聞いたのが先か、特攻艇らしきボロ船を見たのが先かは覚えていないが、あんな小さな船で敵艦に突っ込むなんて、とその攻撃の無謀さは理解できたような気がしていた。

父が亡くなって10年近い時間が流れ、インターネット上でさまざまな情報を検索できるようになってから、父が乗る予定だったモーターボートが「まるレ艇」というものだったと知った。

同様の兵器は海軍でも震洋というものが造られていて、こちらは人間が運転しながら敵艦に突入する特攻兵器だが、陸軍のまるレは、衝突直前に爆雷を投下して離脱するという考えで造られていたのだそうだ。
しかし、爆雷を落としてすぐにUターンしても、爆発に巻き込まれてしまうのは必定だし、何よりハリネズミみたいに防備を固めた連合国軍の艦に突っ込んでいくのである。敵艦に手が届くところまでたどり着くよりその前に、砲撃や機銃掃射で蜂の巣にされてしまうこともまた必定であろう。だから、決死の兵器であることには違いない。

海の上をのたのた走る戦車のような船から、特攻兵器の操縦者に転属になったのは、たぶん昭和20年、終戦の年のことだと思う。前の年に組織された部隊は、沖縄で実戦に投入されたり、本土決戦に備えて全国各地に配備されていたが、父は終戦まで訓練部隊に所属したままで、一度も戦地に出ることはなかったからだ。

それが幸いだったかどうか?

16歳で兵隊になった父は、戦地に赴くことこそなかったが、人類がそれまで経験したことのなかった悲惨を経験してしまっていた。

原爆の記憶から逃れることができなかった少年兵

父は多くを語ったわけではない。でも自分は何度かその話を聞いた。

昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。

「新型爆弾で広島の町が消えたという話が入ってき時、父さんたちは広島県東部の福山市におった。俺たちの部隊はすぐに広島市に向かった。」

片付けとか、そういうこと? と尋ねると、

「いや、ただ行っただけだ。原爆で司令部も県庁もなくなっとったからな。」

そして、父は口を閉ざした。

広島に入った話は3回か4回くらいしか聞いていない。「市民の死体がいっぱいだった」と話したこともあった。死体をどうしたのか聞くと、「俺たちより先に入った部隊が片付けをしていた。父さんは担当が違っていた」というようなことを言って、やはり口を閉ざした。

「広島に入ったのは一日だけで、すぐ呼び戻された」と話したこともあった。

ネットで調べてみると、まるレ艇部隊の司令部は広島市の中心部から海辺へ離れた江田島にあった。市内の軍施設や役所が全滅したのを受けて、被害を受けなかった江田島の司令部が市内に入ったという。そんな状況を考えると、被災した町の片付けも任務のひとつではあっただっただろうが、治安を維持する目的で、軍隊の姿を示すことが最大の目的だったと考えられる。

父は福山から広島に入ったと言っていたが、福山に展開していたまるレ部隊の記録が見当たらない。もしかしたら、父は福山ではなく江田島にいたのかもしれない。

聞き間違いなのか、父の言い違いなのか。それはわからない。

父は晩年、癌を恐れていた。死ぬときは死因は癌だと決めつけているような雰囲気すらあった。日本人の死因の中でも癌はかなり高いところに位置するから、癌を恐れる父の考えを不思議に思うことはなかった。でも、考えてみると父の家系には癌で亡くなった人はいない。

それなのになぜ、あんなに癌を恐れていたのだろう。その疑問が解けはじめたのは、父の十三回忌の法要の後の食事で、伯父と話をした時のことだった。

伯父は父が原爆投下直後の広島に入ったという話を聞いて飛び上るほど驚いた。終戦から60年以上も、そのことをまったく知らなかったのだ。

伯父だけでなく、親戚の誰も、父と仲良かった伯母たちや叔母も知らなかった。母ですら、ちらっと聞いたことはあるけど、深くは聞けなかったと言った。

父は、どうして話さなかったのか。
広島で何を目にしたのだろう。そこでどんなことを経験したのだろう。
わずか17歳の少年にとって、それはどんなにむごいことだったのだろうか。

わずかに、血のつながった息子にだけは断片的に伝えたものの、ほかの家族には一切口を閉ざしたまま生涯を終えた父。


自分は、父の体験したことを知りたいと思う
父が死ぬまで隠し通さなければならなかった理由を理解したいと思う。
なぜ、父が自分の死因を癌だと決めつけていたのか。その理由をしっかり受け止めたいと思う。


戦争の記憶は、体験したひとの肉体が滅ぶことで消えてしまうものではない。
受け継いでいくことは、残されたものの責務だ。

東北の被災地では、多くの人たちが「生かされた私たちは、このことを伝えていかなければならない」と語る。語ってくれる。

戦争についてはどうだろう。いま生きている全員が、『何世代か前のわたしたち』の生き残りだ。生かされた私たちは、記憶を掘り起し、そしてこどもたちに伝えていかなければならない。

災害の悲惨。戦争の悲惨。
そして、核の、原子力の悲惨を。

リレーしよう。伝えよう。

●TEXT:井上良太

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