南三陸町・志津川のシンボルといえば、受験のお守りのタコのキャラクター「オクトパス君」が有名ですが、もっともっと親しまれているのがモアイ像。
南三陸町のモアイ像は、イースター島から贈られた本物のモアイ像。イースター島があるチリ共和国と日本の、そしてともに地震や津波で大きな被害を受けた被災地としてのつながりのシンボルでもあるのです。
東日本大震災の後、南三陸町にモアイ像が贈られることになった経緯を、南三陸町観光協会のホームページから引用させていただきます。感動的ですよ。
93 歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、皆に呼びかけた。
「海に破壊された日本の町に、人々が再びそこで生きていきたいと思えるようなマナ ( 霊力 ) を与えるモアイを、贈れないのか?
私は息子とともに、日本の人たちが必要としているモアイを彫る!」長老会は大きな拍手で包まれたという。
イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、島外に出たことはない。しかし、かつて倒れてバラバラになっていたモアイ像を、
日本人がもとの姿に建て直す支援をしたことがあったことから、イースター島初のプロジェクトが始まった。
こうして息子のベネディクト・トゥキ氏は、石材を切り出して、親戚の彫刻家たちとともにモアイを制作した。
南三陸町を訪れたトゥキ氏は、設置されたモアイに白珊瑚と黒曜石で作られた眼を入れた。眼が入ったモアイは、世界に2体しかないという。
南三陸町を訪れ、津波の惨禍を目の当たりにしたトゥキ氏の目に涙があふれた。
「眼を入れるとマナがモアイに宿る。南三陸の悲しみを取り払い復興を見守る存在になることを願っている。」と彼は語った。
チリ共和国から南三陸町にモアイ像が贈られたのは、今回が二度目です。
最初のモアイ像がやってきたのは、1960年に発生したチリ地震による津波により志津川町(現・南三陸町)が甚大な被害を受けてから30年後。壊滅的ともいえる破壊から立ち直った町の歴史、そして災害への備えを後世に伝えていくためにチリ共和国政府に依頼したのがきっかけだったということです。
1体目のモアイに添えられていた碑文を当時の写真から読みとってみます。
志津川町とモアイ像
昭和35年5月24日未明、南米チリ地震により発生した大津波が日本の太平洋沿岸に襲来し、志津川町内では死者41名の犠牲者と家屋の流出312戸・倒壊653戸・半壊364戸・浸水566戸、農業水産・土木関係など被害額52億円にのぼる壊滅的な大被害を被った。
このチリ地震津波災害復興30周年にあたり、歴史的な大災害の教訓を後世に伝えて行くために、同じ被災国であるチリ共和国との友好のシンボルとして同国の国鳥コンドルの碑とイースター島の謎の巨石像モアイのレプリカを同国の彫刻家に製作を依頼し、チリプラザ(松原公園)に設置した。
モアイは、17,000kmの海を渡ってきた友好の使者であり、チリ共和国大統領からは、メッセージが贈られている。
松原公園にあったモアイ像の碑文
このストーリーを読むと、両国の友好の素敵な物語というだけではない、苦しくて辛くて深い感情が心の中で渦巻くような気がしませんか。1960年のチリ地震で破壊されて尽くされた町。そこから立ち上がった象徴としてのモアイ像。しかし、そのモアイ像も流されてしまう巨大地震と巨大津波に見舞われるなんて。
もう繰り返したくない。繰り返さないんだと思っていたのに。(すみません。酷な言い方になってしまって。だけど私の知り合いの南三陸出身の方はみんなそうおっしゃるんだもの。だから、その思っていらっしゃることをしっかり伝えたいと思うのです)
南三陸町の観光協会のテキストは次のように続きます。
チリも南三陸町も、豊かな海から糧を得、その恩恵に感謝している。そして、長い歴史の中で、いとも簡単に人間の命や暮らしを奪う海の恐ろしさを熟知している。
地震を感じなくても、津波は地球の反対側から襲ってくることがある。双方の地は長い時間の中で大自然の災禍を体験し、人間がどう自然と共生すべきかを学んできた。
そして、どんな困難にぶつかったとしても、勇気を持って立ち向かう心意気を勝ちとってきた。
そして、締めくくりは次の一言。
「モアイ」は、イースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味だ。
白珊瑚と黒曜石で作られた眼とマナが込められたモアイ像は、仮設商店街として有名な南三陸さんさん商店街の側に立っています。
モアイ像の前で記念撮影をする時に思い出して下さい、
「未来に生きる」というモアイに込められた意味を。
さんさん商店街に立つ本物のモアイ像
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