1891年10月28日、これまで日本で記録された最大の直下型地震「濃尾地震」が発生
地震には大きく分けて、プレートの境界で発生する地震と、プレートの中の断層が動いて発生する直下型地震があるとされています。直下型地震ではプレート境界型地震に比べて解放されるエネルギーは一般的に少な目になると言われますが、プレート型地震に匹敵するマグニチュード8.0クラスだったと推定されているのが濃尾地震です。
1891年10月28日午前6時38分、岐阜、愛知、滋賀、三重など広い範囲で地震が発生。初め水平・垂直方向に揺れていたものが突如猛烈な震動となり、14万戸以上の家屋が倒壊、7,273人が亡くなる大惨事になりました。濃尾地震(濃尾大震災)です。
この地震で破壊された断層は、福井県南部から岐阜県を横切って愛知県境まで続く80キロもの長さに達し、内陸型の直下型地震としては観測史上最大のマグニチュード8.0だったとされています。
激烈な地殻変動は、地上にも大きな断層を出現させました。上の写真の「根尾谷断層」は垂直方向に最大で6メートルものずれを生じています。阪神淡路大震災の野島断層でも、1~2メートルの横ずれと50センチから1.2メートルの垂直方向のずれだったことからも、濃尾地震がいかに激烈な地震だったかが分かります。道が途中で寸断された根尾谷断層の写真は、世界中に配信され非常に有名になったそうです。当時は地震の原因がはっきり分かっていなかったので、断層の動きこそが地震であるという地震の正体についての議論を進めていく上でも貴重な写真となったそうです。
濃尾地震の写真としては、根尾谷断層のものが余りにショッキングで有名ですが、地震発生当時に描かれた瓦版(木版による新聞)には激しい火災が描かれています。地震が発生したのはまさに朝食時。突然の大地震で多くの民家が倒潰する中、岐阜市など県南部の都市部では多数の箇所から火災が発生したようです。
地震と火災。関東大震災や阪神淡路大震災で繰り返されてきたのと同様の、悲惨な被害が引き起こされていたことが想像されます。
濃尾地震は、国家として近代化が推し進められていた明治時代に初めて遭遇した大震災でした。この震災をきっかけに日本の地震研究が本格的に始まったと言われています。
1707年10月28日、宝永大地震で日本列島の広い範囲で大きな被害が発生。49日後には富士山も噴火
宝永4年10月4日、紀伊半島沖が震源と推定される宝永大地震が発生。古文書などの形で各地に残された被害記録から推定されるマグニチュードは8.6と、日本で発生した地震の中でも極めて巨大な地震だったと考えられています。その被害規模も甚大で、激しい地震の揺れによって大阪や奈良を中心に広い範囲で建物が倒潰する被害が生じた後、伊豆半島から九州に及ぶ広範囲で非常に大きな津波が発生し、全国的な大震災となったと言われます。
宝永大地震で発生した津波は、伊豆半島の下田で5メートル規模、紀伊半島の尾鷲で10メートル弱、高知市など土佐湾沿岸で10メートル以上、大分の佐伯や宮崎などで5メートル規模など、研究者によって幅はあるものの、広い範囲で大津波が発生したことが推定されています。津波は江戸前でも1メートルほど、長崎の出島でも観測されたといいますから驚きです。太平洋沿岸から九州を迂回して東シナ海にまで及ぶ超巨大津波だったのです。
津波被害は外海だけにとどまらず、瀬戸内海にも押し寄せました。岡山や広島でも3メートル規模の津波があったと考えられていますが、とりわけ甚大な被害があったのは当時天下の台所と呼ばれた大坂でした。津波の高さは2.5~3メートルほどだったとされますが、町を縦横に貫く掘割に津波は侵入し、市街の奥まで押し寄せたと言われます。
大阪の街は、北新地から現在市役所がある辺り、さらに心斎橋の近くまで地震によって家屋が残らず倒壊するような被害を受けた後、安治川、木津川を逆流して流れ込んできた津波が、道頓堀、長堀、立売堀にまで達したと記録に残されています。津波は河口や掘割に停泊していた大小の廻船を上流に押し流し、大船が橋に乗り上げたところへさらに打ち寄せてくる大小の舟によって、30近くの橋が壊され、地震の被害を逃れようと船に乗り込んでいた人々をも巻き込んでいったと伝えられます。道頓堀では津波は日本橋まで達したところでようやく止まったそうです。
宝永地震は300年前の地震だったことに加えて、地震の49日後に富士山の宝永噴火が発生し、その影響や印象が大きかったことから、残された記録が乏しいとされてきました。たとえば人的被害は、これまで全国で死者5000人~2万人規模とされてきましたが、この通説を上回る大阪だけでも死者2万1千人超という資料も注目されるようになっています。また全国の建物被害や津波の伝播した範囲から、震源域や地震規模の見直しも行われています。
300年前の地震とはいえ、南海トラフを震源とする巨大地震だった宝永地震。その実態に迫る研究が今後も進むことを期待します。
歴史の中の10月28日
▼1876年 萩の乱
山口県萩市(長州藩の本拠地だった土地)で発生した不平士族による反乱。維新十傑に数えられる幕末の志士で、元参議の前原一誠に率いられた長州藩の士族らが、最初は山口の県庁を、続いて上京を画策したが捕えられ、萩で斬首された。
前原は久坂玄瑞や高杉晋作らとともに倒幕を進め、明治政府では参議・兵部大輔を務めていたが、徴兵制を巡って木戸孝允や山縣有朋と対立し下野していた。
同年10月24日には熊本で神風連の乱が、そして10月27日には福岡で秋月の乱が起きており、萩の乱はこれらの動きに呼応したものとされる。この短期間に士族の反乱が連携して行われたことからは、当時の士族の間で鬱積していた不満の大きさも感じられる。
▼1886年 自由の女神の除幕式
南北戦争後の混乱の中にあったアメリカに、フランスの友情を示そうと独立100周年を記念して贈られた自由の女神。
寄付を呼びかける運動、パリ万博に頭部を展示しての募金活動、300ピースに分解された女神像を積み込んだフランス船イゼール号が乗り越えたあわや沈没の危機、そしてアメリカに運ばれた後も台座建設や組み立ての遅延などなど幾多の困難を乗り越えて、この日公開された。
▼1888年 伊予鉄道高浜線(三津・松山間)が開業
いまや松山市民の足となっている電車の私鉄だが、開業当時は軽便鉄道だった。夏目漱石の「坊ちゃん」にも「マッチ箱のような汽車」として登場する。
ぶうと云(い)って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離(はな)れて、漕(こ)ぎ寄せて来た。船頭は真(ま)っ裸(ぱだか)に赤ふんどしをしめている。野蛮(やばん)な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼(め)がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森(おおもり)ぐらいな漁村だ。人を馬鹿(ばか)にしていらあ、こんな所に我慢(がまん)が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢(いせい)よく一番に飛び込んだ。続(つ)づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱(はこ)を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻(もど)して来た。陸(おか)へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯(いそ)に立っていた鼻たれ小僧(こぞう)をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎(いなか)ものだ。猫(ねこ)の額ほどな町内の癖(くせ)に、中学校のありかも知らぬ奴(やつ)があるものか。ところへ妙(みょう)な筒(つつ)っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾(つ)いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃(そろ)えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄(かばん)を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をしていた。
停車場はすぐ知れた。切符(きっぷ)も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭(やと)って、中学校へ来たら、もう放課後で誰(だれ)も居ない。宿直はちょっと用達(ようたし)に出たと小使(こづかい)が教えた。随分(ずいぶん)気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋(たず)ねようかと思ったが、草臥(くたび)れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋(やましろや)と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎(かんたろう)の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
▼1919年 アメリカで禁酒法が成立
草の根運動的に広まった禁酒運動を受けて州法としての禁酒法が成立した後、連邦禁酒法が成立。いったんはウッドロウ・ウィルソン大統領によって拒否されたが議会が引っくり返し、禁酒法の時代「狂騒の20年代」が幕を開ける。
▼1929年 ウォール街の大暴落が続く。「暗黒の月曜日」
10月24日のブラックサーズデーに始まったニューヨーク株式市場の大暴落は、週明けのこの日も続いた。
▼1956年 二代目通天閣開業
初代通天閣は戦時中の1943年、階下の映画館の火災で鉄骨が強度不足となり、軍需資材として供出するという名目で解体されていた。
▼1962年 キューバ危機でソ連がミサイルの撤去を表明
キューバ革命でソ連に接近していたキューバに、ソ連の核ミサイルが持ち込まれたことが発覚して勃発したキューバ危機。アメリカからしてみると裏庭のようなカリブ海に核ミサイルが持ち込まれたことに反発し、当時のケネディ大統領の命令で大陸間弾道ミサイル、日本を含む海外の基地、さらに戦略爆撃機にも臨戦態勢が敷かれ、10月27日にはキューバ上空でアメリカのU-2偵察機がソ連の地対空ミサイルで撃墜される。第三次世界大戦勃発の危機が現実のものとなっていた。
そんな最中の10月28日午前9時、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。
▼1972年 エアバスA300が初飛行
▼1972年 パンダの「カンカン」「ランラン」が上野動物園に到着
まさに、日本中が大フィーバーした出来事。大阪万博も終わり、札幌オリンピックも終わり、ローマクラブが「成長の限界」を発表し、何となく未来に薄雲がかかり始めていた頃、パンダは時代の「明」の部分の象徴だった。上野動物園に長蛇の列ができたのはもちろん、全国各地でパンダグッズが売れに売れた。パンダは無敵のヒーローだった。
1972年 昭和47年
日中国交回復を記念して、ジャイアントパンダの“カンカン”と“ランラン”が来園。以後、年間入園者が700万人を超える年が続く。
▼1979年 御嶽山で水蒸気爆発
それまで火山活動が記録されておらず「死火山」と認識されていた御嶽山で水蒸気爆発が発生する。この時の噴火では、事前に噴気などが観察されることなく、いきなり水蒸気爆発を起こした。この噴火以降、全国の活火山の見直しが進み、御嶽山に関しても8世紀と19世紀に噴火記録があることが判明した。
▼1981年 ハチのひと刺し!ロッキード裁判の榎本被告夫人・榎本三恵子が田中元首相の5億円受領を裏附ける証言
ロッキード事件丸紅ルートの公判で、元首相秘書、榎本敏夫被告の夫人・榎本三恵子氏が、丸紅からの5億円受領を榎本被告が認めていたと証言。田中元首相は不利な立場に追い込まれた。榎本三恵子氏が記者会見で語った「ハチのひと刺し」は流行語にもなった。
▼1993年 ドーハの悲劇
この日が誕生日
◆1837年 徳川慶喜
水戸藩主・徳川斉昭(烈公)の七男として生まれ、後に御三卿(八代将軍吉宗の子孫が分立した三家の大名。将軍家に後嗣がない時には御三家のうちの紀州・尾張か御三卿家から選任された)一橋徳川家を継ぐ。
13代将軍家定の跡取り問題が持ち上がった際には、紀州家の徳川慶福(よしとみ)との後継者争いに担ぎ上げられるが、この時は井伊直弼の大老就任によって後継将軍は徳川慶福(徳川家茂)に決せられ、慶喜は将軍後見職に就いた。
慶喜は度々上洛し、尊王攘夷派、公武合体派などと多角的な交渉を展開するが、禁門の変では最前線で実戦を経験する。この頃から長州に対する強硬姿勢が固まる。
長州征伐の最中に家茂が死去したのを受けて15代将軍に就任。しかし同じ頃、長州は薩摩と密約を結び倒幕の動きを加速させていく。
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