[10月28日という日]濃尾地震・宝永地震が起きた日

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「大政奉還図」邨田丹陵筆

「大政奉還図」邨田丹陵筆

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慶喜はフランスの軍事援助を受けるなど、軍備を整える一方、慶応3年10月、大政奉還という大きな勝負に打って出る。大政奉還は幕府政治の終わりを意味するものではあるが、当時の情勢として徳川将軍家は依然として日本最大の軍事・経済・政治力を有する勢力であり、大政奉還後に組織される諸侯会議をリードしていく可能性があった。

ところが薩摩側の朝廷内クーデタにより、慶喜を排除する王政復古の大号令が出され、徳川将軍家は地位と領地の返納を要求される。慶喜はこれに穏当に対応しようとしていたが、慶応4年1月3日、薩摩の挑発に乗って鳥羽伏見の戦いが勃発。すかさず慶喜を朝敵とする追討令が下され、戊辰戦争は薩摩などの官軍が朝敵・徳川家を討つ戦争となった。

歴史は大きく動いていた。東海道、東山道沿いの大名はほとんどが官軍側に付いた。旗本領が点在する地域でも抵抗はほとんどなく、3月13日・14日には芝浦で勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、江戸は無血開城されることとなる。慶喜は寛永寺、水戸、駿府で謹慎を続け、明治2年ようやく謹慎を解かれた。

明治維新後は駿府(静岡)に住み、写真や狩猟、囲碁など趣味中心に人生を送った。写真や狩猟は有名だが、海釣り好きも地元では有名で、清水港から常連の船頭さんに船を操らせて駿河湾で釣りを楽しむことが多かったと伝えられる。

明治35年には明治天皇に謁見し、徳川宗家(慶喜の蟄居で田安家の徳川家達・いえさとが相続していた)とは別に、徳川慶喜家として公爵に叙せられた。

◆1939年 矢口高雄
秋田県雄勝郡出身の漫画家、エッセイスト。1973年、「幻の怪蛇バチヘビ」でツチノコを紹介。ツチノコブームを作った。代表作は何といっても「釣りキチ三平」。

◆1944年 蟹江敬三
東京出身の俳優、ナレーター。若い頃は刑事ものなどでの悪役が多かったが、1980年代後半から味のある善人役を演じる機会が増える。最晩年の出演「あまちゃん」の天野忠兵衛役もかっこよかった。2014年3月30日没。

この日亡くなった人たち

・1704 ジョン・ロック
イギリスの哲学者。「人間悟性論」で経験論的認識論を展開した。資本の蓄積と労働の関係を説いた労働価値説の源流と目されることもある。労働が価値を生み出す考えはアダム・スミス、マルクスに受け継がれていく。

・1852年 島田虎之助
幕末の剣豪。豊前中津に生まれ、後に江戸に出て直心影流剣術の男谷精一郎(信友)に弟子入りする。精一郎の従弟で男谷道場の兄弟弟子となった勝麟太郎(海舟)は、虎之助が独立して道場を構えた際に入門している。
男谷精一郎とともに幕末三剣士と呼ばれる剣豪の1人。
(没年の西暦表記はWikipediaに拠る)

・1990年 鹿内信隆(しかない のぶたか)
北海道夕張郡出身の実業家。ニッポン放送、フジテレビの開局に参画し、ニッポン放送、フジテレビ、産経新聞の社長に就任。フジサンケイグループ会議議長。

・2013年 川上哲治
熊本県出身のプロ野球選手・監督。終戦直後は「赤バット」として人気を博し、読売監督としては九連覇を果たした。三原騒動(三原脩監督が経営陣との確執から放逐された出来事)後に監督に就任した水原茂との確執の中、猛練習に打ち込んでいた際の言葉とされる「ボールが止まって見えた」は明言。左投げ左打ち。戦前には投手と打者の二刀流だった。

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