[空気の研究]世界大戦はいかにして勃発したのか

Rinoue125R

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第一次大戦時、アメリカ陸軍が志願兵を募ったポスター「Uncle Sam wants You for army」。悲惨な戦場の様子が伝えられていたにもかかわらず、多くの若者が入隊したという(wikipedia.org)
第一次大戦時、アメリカ陸軍が志願兵を募ったポスター「Uncle Sam wants You for army」。悲惨な戦場の様子が伝えられていたにもかかわらず、多くの若者が入隊したという(wikipedia.org)

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世界大戦と呼ばれる大戦争を人類が初めて経験してから100年が過ぎた。

第一次世界大戦が勃発した理由を訊かれて、100字程度で答えられる人などいないだろう。世界史の授業でオーストリア皇太子夫妻が暗殺された「サラエボ事件」とか「三国協商」「三国同盟」といった言葉を教わった記憶が残っていたとしても、どういう相関関係で世界大戦が発生したのかをすらすらと説明するのは難しい。

ドイツはどうして国の命運を擲つ戦争に及んだか

第一次世界大戦劈頭のドイツ軍の進撃(1914年8月7日)(ウィキメディア・コモンズ)
第一次世界大戦劈頭のドイツ軍の進撃(1914年8月7日)(ウィキメディア・コモンズ)

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しかし、第一次世界大戦がなぜ発生したのか。どうしてオーストリアとセルビアの対立でしかなかったサラエボ事件が、世界戦争の起因となったのか。あまつさえ、英仏露の列強に囲まれた新興国ドイツが、どうして無謀な両面作戦(フランス国境の西部戦線と対ロシアの東部戦線)に打って出たのか。その経緯を調べてみると、戦争と言うものが本質的に有している不確定性が明らかになる。

大戦終了時の英首相デビッド・ロイド・ジョージ

大戦終了時の英首相デビッド・ロイド・ジョージ

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100年後の今日だからこそ理解しやすくなったことをひとつ挙げるとすれば、それは同盟関係というキーワードだ。ほとんど集団的自衛権と言い換えてもいいかもしれない。複数の国同士が同盟関係を結んでいる状況では、一国の指導者の思惑や意思を越えたところで、戦争への歯車は動き始めることがある。その顕著な証左が第一次世界大戦だったといえるかもしれない。

第一次大戦が始まった経緯を解説する記事「勃発! 第一次世界大戦」の中で、著者の山崎雅弘氏は次のように紹介している。

だが、戦争勃発時のイギリス蔵相で、戦争中の一九一六年十二月からは首相を務めたロイド=ジョージは、戦後の一九三三年に出版した回想録において、当時閲覧可能だった各方面の記録を「入念に精読」した結論として、オーストリアとセルビアの「第三次バルカン戦争」でオーストリア側を支持する保証を与えた当時のカイザーは、「自分がヨーロッパ戦争に突入しようとしている、あるいはとつにゅうさせられようとしている」とは露ほども考えてはいなかった、という自らの「確信」を、率直に書き記している。

「勃発! 第一次世界大戦」山崎雅弘 | 歴史群像No.125

世界戦争が終戦した後、戦争の責任を一身に負わされるようになったドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム2世でさえ、「まさか大戦争の当事者になると考えていなかった」と指摘しているのだ。

始めたくなかったのに起きた戦争

1890年のヴィルヘルム2世の肖像画(マックス・コーナー画)(ウィキメディア・コモンズ)

1890年のヴィルヘルム2世の肖像画(マックス・コーナー画)(ウィキメディア・コモンズ)

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それではドイツは、どのような経緯で主役(悪役)として世界戦争に「巻き込まれて」いったのだろうか。

普仏戦争に勝利したドイツはヨーロッパの新興国として、軍事力・経済力の面でイギリスをも脅かすほどの存在になっていた。しかし、ヨーロッパ大陸のほぼ中央に位置するドイツは、西にフランス、東方にロシアという大国に挟まれている。ドイツの勢力拡大を警戒した仏露、さらに英国は三国協商を結んでドイツを包囲していた。

他方ドイツは南のオーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結び、さらにトルコやブルガリアと結んで三国協商に対抗した。とはいえ仏露に挟まれているという地政学的状況からドイツは普仏戦争後「次の戦争」の戦略を立て、時代とともに手直しを繰り返してきた。ドイツにとっても、東西の二正面作戦は危険極まるものと考えられていたといっていい。

他方ドイツは南のオーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結び、さらにトルコやブルガリアと結んで三国協商に対抗した。とはいえ仏露に挟まれているという地政学的状況からドイツは普仏戦争後「次の戦争」の戦略を立て、時代とともに手直しを繰り返してきた。ドイツにとっても、東西の二正面作戦は危険極まるものと考えられていたといっていい。

最初に立てられた戦略は、フランスとの対立を避けロシアに対抗するものだった。国境地帯に深い森シュヴァルツヴァルトや大河ラインがあるフランスとの西部戦線は防御に適した地形が続く。これに対してロシアとの国境地帯には守備に有効な天然の要害がほとんどない。そのことから、次の戦争は西部戦線は防御に徹し、対ロシアに限定した攻勢をかけるという戦略が立てられた。

しかし、19世紀末に陸軍参謀総長に就任したアルフレート・フォン・シュリーフェンはそれまでの戦略を根底から覆す大胆な戦略を打ち出した。開戦から6週間でまず西部戦線で攻勢をかけパリを陥落させる。続いて返す刀で東部戦線のロシアを撃つというものだった。「シュリーフェン計画」として知られるこの戦略は、ドイツが誇る鉄道網と綿密な運行計画によって、敵軍が体制を整える前に大軍を前線に投入することで、相手を圧倒するという考えによるものだったという。

相手の体制が整う前に兵力を集中するという戦術は、ナポレオンが採って以来陸上先頭の王道ともいうものだった。ドイツは鉄道を活用した兵力投入に自信を持っていたが、ドイツと対峙する仏露両国も、鉄道網を利用した大規模な兵力動員体制を整えていく。

また、数十万人の兵力を鉄道で輸送する計画は綿密かつ厳密なものになる。部隊の半分を別方面にとか、途中で動員を中止してということが不可能なほどガチガチの計画になってしまったことが、大戦争の遠因という指摘もある。

各国があらかじめ策定した戦略にそって、ラッシュ時の鉄道ダイヤのように厳密に立てられた動員計画により、いざ宣戦布告となれば、計画通りに兵力を前線に送り込むことになる——。ヨーイドンと同時に巨大な兵力を動かすほかない硬直した状況の中で、サラエボ事件が発生する。

バルカン半島での限定的戦闘との見込みは破綻

当時まだ大帝国の余韻が残っていたオーストリア=ハンガリー帝国はバルカン半島への領土的野心を持ち続けていた。サラエボは帝国領でありさらにセルビアへも触手を伸ばしていた。これに対抗していたのが東方の大国ロシアで、セルビアを保護する方針を打ち出していた。

そんな折りに皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺されるサラエボ事件が発生。これを機にオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに最後通牒を突き付ける。オーストリア側の強硬姿勢の背景にはドイツとの同盟関係があった。さらに戦闘が発生した際にオーストリア側を支援するとの約束をドイツから取り付けていた。

オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア側の回答に納得せず、7月28日にセルビアに対して宣戦布告する。セルビア支援を打ち出していたロシアも覚悟を固めなければならなかった。セルビアを支援するということはオーストリアの同盟国ドイツとの戦争に発展する可能性がある。発端はオーストリアとセルビアによるバルカン半島での戦いが、ドイツとロシアの間の軍事的緊張に直結した。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオーストリアがセルビアとの間に先端を開いても、ドイツ対ロシアの戦争は回避できると考えていたらしい。ヴィルヘルム2世はともに英国のヴィクトリア女王の孫にあたるニコライ2世に書簡を送って全面戦争を回避しようとしたが交渉は失敗。ヴィルヘルム2世はフランスに対しても戦争回避の交渉を続けていたがこちらも不調に終わる。

交渉決裂となれば兵士を前線に送り込む動員が発動し、あとは機械的に兵士たちは大量に前線へと送り込まれていく。ドイツ軍はシューリフェン計画通り西部戦線へ。フランス軍は対ドイツ戦線へ。ロシア軍もドイツを東から対峙する前線へと動き始める。もう誰にも止めることはできなかった。

国と国の間の戦争は、もはや王族同士の個人的な関係で回避できる時代ではなくなっていたということも見逃せない。そこには国民国家の成長という要因を見ることができるかもしれない。国民国家の成立には、戦争に関わる利害関係の当事者が従来のごく限られた特権階級からより多くの国民(といっても資本家につながる一部の国民だろうが)に拡大した側面がある(この点については別の機会に考えたい)。とはいえ、皇帝が戦争を回避しようとしても大臣や将軍の意向が優先される状況が引き起こされることはあったようだ。

戦車が登場するソンムの戦いでのイギリス軍(1916年7月)(ウィキメディア・コモンズ)
戦車が登場するソンムの戦いでのイギリス軍(1916年7月)(ウィキメディア・コモンズ)

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連鎖反応のように続いた宣戦布告

オーストリア=ハンガリー帝国が7月28日、セルビアに対して宣戦を布告したのに続いて、交渉に行き詰まったドイツは、8月2日にロシアに対して、翌3日にはフランスに対して宣戦布告することになる。同盟関係があったからこそ、つまり集団的自衛権と同様の考え方によってドイツは世界戦争へ続くドアを開いてしまうことになった。

ヨーロッパの大陸での戦乱に対して、イギリスも8月4日にドイツに宣戦布告。当時は日英同盟が結ばれていたので、イギリスはさらに日本にも連合国側に加わるよう要請し、日本も参戦。イギリスの参戦も、遠く離れた日本の参戦も同盟に基づく集団的自衛権と同様だと考えることができる。(厳密には自衛のための戦いではないなどの理屈はあるだろうが、集団的自衛権の範囲があいまいであることから、ほぼ類するものと考えて差し支えないだろう)

戦争はどのようにして始まるのか分からない

2014年7月1日には、日本で集団的自衛権が閣議決定されたが、実際の戦闘は日本政府が説明に使ったパネルのようにあらかじめ想定されたストーリーにそって発生するものではない。もしも想定したシチュエーションから戦闘行為が始まったとしても、どのような幕引きになるのかなど誰にも予想できない。小規模な戦闘行為とみなしていたものが攻撃と報復の応酬でエスカレートして、幕引きどころか戦火拡大という恐れは十二分にある。

まして、第一次世界大戦はひとつの独立した戦争ではなく、その後の戦後処理、経済的な危機、解消されないままだった「持たざる国」の帝国主義的野望などが直接間接の原因となって第二次世界大戦につながっていく。20世紀の前半の約30年間は、間に短いインターバルを挟みつつ続いた世界大戦の時代だったと見るのも決して不自然な見解ではない。

第一次世界大戦でドイツはいかにして、自国の運命を乾坤一擲するような両面戦争に追い込まれていったか。指導者であるカイザーの意志に反して戦争への歯車が動き出してしまったこと。第一次世界大戦勃発の流れを振り返ることは、これから先に起こりうる危機を極力回避するために、何が必要なのか。何をしてはいけないのか。ほとんど回答に近いヒントを与えてくれている。

文●井上良太

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