普代村の防潮水門を見た後、岩手県宮古市の田老地区を訪れる。田老地区の防潮堤は国内有数の規模を誇っており、以前から自分の目で見ておきたかった堤防である。
前編のはなし
田老地区の巨大防潮堤
東日本大震災前、田老地区の防潮堤は上空から見ると「X」字の形をしていた。「X」字型の堤防は全国的にも珍しく、この独特な形は数度の工事を経て完成に至っている。
最初に建設が始まったのは1934年。昭和三陸津波襲来の翌年である。しかし1940年、第二次世界大戦の影響により工事が中断される。終戦から9年後の1954年に工事が再開され、1958年に高さ10m、全長1350mの初期の防潮堤が完成している。
1954年に完成した防潮堤は、海に向かって軽く突き出すようなカーブをした防潮堤であった。これは堤防の脇を流れる川に津波を受け流して、避難する時間を稼ぐ設計思想だったと言われている。防潮堤内側の道路は碁盤の目のように設計され、縦方向の道路は全て山へと向かって作られており、暗闇でも迷わず高台にたどり着ける工夫などがされていた。
しかし、1961年に始まり66年に完成した防潮堤の増築工事では、海に対してへこんだカーブをしたものを造り、津波を「受け流す」設計思想から「受け止める」ものへと変わってしまったことが指摘されている。新たに作られた防潮堤の内側の道路も、何度も曲がらなければ山へとたどり着けないものになっていた。
こうして1966年に、新旧2つからなる総延長2433mの「X」字型の田老の防潮堤が完成している。
田老地区
田老地区を襲った津波
田老地区の防潮堤は「万里の長城」とも形容され、国内最大級の規模を誇ったものだった。しかし、東日本大震災で発生した津波では大きな被害を受けている。
次の記事は、震災発生から間もない3月20日、田老地区の津波について報じたものである。
「日本一の防潮堤」「万里の長城」――。住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちはぼうぜんとしている。
「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。
小林さんは「防潮堤は安心のよりどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。
(中略)
今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性(45)は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。
今後の津波対策をどうするのか。漁師の川戸治男さん(69)は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。
ちなみに、田老地区の防潮堤が壊れた原因は設計思想によるものか、堤防の強度によるものか、あるいはその両方なのかはわからないが、増築された新しい防潮堤が決壊している。
田老地区では現在、1966年に完成した海側の新しい防潮堤の高さを14.7mに引き上げるほか、高台への移転、土地のかさ上げ工事を行う予定である。
田老地区の防潮堤があと10m高ければ・・・。普代村の津波があと5m高かったならば・・・
普代村と田老町、東北旅行で訪れた2つの地区の被害状況は、対照的な結果となっている。
田老地区については、巨大な防潮堤を持ってしてでも津波を防ぎきれなかったという見方もあるし、今より10m高く、また決壊しないほどの強度があったならば、震災後の評価は異なっていたという見方もあるかもしれない。
一方の普代村の防潮堤。今回は被害を最小限にすることができた。しかし、あと5m高い津波が襲っていれば、防潮堤に対する評価は異なっていたかもしれない。普代村の防潮堤の高さは、明治の三陸津波の高さを参考にして作られているが、1611年の慶長の大津波は明治の津波よりも更に高かったと言われている。今回も津波は防潮堤を超えており、あと数メートル高かったならば状況が変わっていた可能性もある。
田老地区も普代村も防潮堤をさらに高くした方がいいとも言えるのかもしれない。しかし、その一方で安全な高さが不明な状態でどの程度にすればいいのか。高ければ高いほど閉塞感を感じさせる街となってしまう恐れもある。また、防潮堤の高さについて、先月23日付の河北新報の記事で次のように報じられている。
東日本大震災では「海の見えない地区」より「海の見える地区」で、居住者に占める津波犠牲者の割合が低かったことが、谷下雅義中央大教授(都市・地域計画)の研究グループの調査で分かった。
(中略)
また「海に面し」かつ「徒歩5分以内に避難できる高台がない」行政区は犠牲者率が低い傾向を確認した。谷下教授は「一見すると津波防災上は不利な条件が、かえって逃げる意識を高め、結果として人命を守った可能性がある」と話す。
防潮堤の高さについて
防潮堤の高さについて、巨大だったからこそ守られた命もあれば、大きくても守れなかった命もある。また、大きすぎたからこそ失われてしまった命も指摘されている。現在、計画されている東北の防潮堤については、次のようなことが報じられている。
被災3県で整備予定の防潮堤は総延長386キロに及ぶ。既に46キロ分が完成し、各地で工事が本格化している。
(中略)
既存の防潮堤は各県横並びでおおむね1メートルのかさ上げが決まった。「既存高プラス1メートル」までなら災害復旧事業の枠内として全額国に負担してもらえるためだ。
国の基準を出発点に各県は、防潮堤の整備方針を決定。その後、背後地を土盛りしてインフラを敷設。最後に住民に諮ってまちづくり計画を固める。
行政による復興は概略この順序で進められてきた。だが、復興に寄せる被災住民の思いは、行政の手法と逆のプロセスをたどるのが普通だろう。
住民はまず「こんなまちで暮らしたい」という理想から対話を始める。次に願いを形にして街並みや施設の配置を考える。そして最後に防潮堤は必要か、必要だとしたら許容できる高さはどれくらいかを決める。
防潮堤の建設を復興の入り口とする行政と出口に置く住民では、議論がかみ合うはずもなかった。
単なる復旧事業である以上、住民合意も必要としない。結果、復興の加速化を重視する行政の対応は相当、荒っぽいものとなった。
岩手県の説明会では職員が膨大な資料を駆け足で説明し、住民は熟慮する時間を与えられないまま、その場で拍手を求められたという。宮城県の村井嘉浩知事は「私の責任で決断する」との言説を曲げようとしない。
仮に、それが住民の命を守る手だてだとの信念で復興事業を推し進めたとしよう。しかし、住民の理解と納得を軽視する形で造った防潮堤によって土地の魅力が減じてしまえば、やがて人々はその土地から去っていく。そうなったとき、巨大防潮堤は一体何を守ろうというのか。
記事に書かれているような行政主導により高い防潮堤が計画され、住民が反対している話は他にも耳にする。なかには住民の意向を受けて修正した自治体もあるようだが、行政が押し切るケースも存在するようである。
巨大防潮堤のおかげで助かった人もいれば、助からなかった人もおり、高さ問題は改めて難しいと感じている。適切な高さなどはないのかもしれない。しかし、その高さについて、自治体や専門家のアドバイスは必要かもしれないが、最終的には住民が決定をすべきことではないだろうかと感じている。なぜなら、防潮堤の高さによって「命、財産を失うリスク」と「住み心地、景観の犠牲」はそこに住んでいる人が全てを負うことになるのだから。東北の2つの防潮堤を見て、調べて、そのことを改めて感じている。
参考WEBサイト
Text & Photo:sKenji
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